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日蓮大聖人・池田大作

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夫婦愛のぬくもりを遣して ベロニカ・ト…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
3  近く片田舎に移るので、そこで再会したい、とご夫妻は言われていた。その言葉どおり、お二人は私が最後にお会いした一九七三年のうちに、ロンドンの都塵を避けて、ヨークシャーに転居された。お宅には、ヨーロッパにいる私の友人に何度か足を運んでもらったので、私も様子を聞きおよんでいる。
 その家は、ヨークシャーに特有の緑深い景致をなした丘の上にあるという。すぐ目の下には緑を畳ねた谷間がゆるやかに開け、その向こうに小高い山がせりあがって、風光の美しいことはまことに絵のようだという。
 ご夫妻は、そこで普通の閑適生活に入られたわけではない。博士は新聞への寄稿そのほかの仕事をされ、ベロニカ夫人がそのための材料集めや原稿の整理といった助力を尽くしておられた。やはり身辺の怱忙さは抜けきらなかったようである。それでも薄いタ畑があたりをめるころ、斜陽の朱に染まった見晴らし窓の傍らに椅子を近寄せ合って時を過ごされるお二人の姿には、えもいわれぬ平安さが漂っていて、ふと話が跡絶えでも、無言のうちに有無相通じておられるようだつたという。
 そんなお元気な博士が脳卒中で倒れ、長の病褥に就かれたのは、翌一九七四年夏のことであった。ベロニカ夫人からは、もはや本復の兆しのないことを知らせる便りがきた。
 「主人を尊敬される人びとにとっては、今の主人ではなく昔の主人に心を留めておかれたほうがよいと感じるのです」と。
 七五年五月、私は、博士との対談をまとめて発刊なった日本語版『二十一世紀への対話』を携えてロンドンにおもむき、博士の秘書ルイス・オール女史に手渡した。厳しい養痾ようあの日々を送る博士にも、夫人にも、お会いするわけにはいかなかった。その年の十月、博士はついに臥床を去りえずして逝かれたのである。
 まもなく夫人が寄せてこられたお手紙は、私を襲っていた深い落莫らくばくの思いを、いくらかでも和らげてくれるものであった。「……私のなすべき仕事は、ここにたくさんあります。これらのために時を過ごすことは、休養と気晴らしを求めるよりも、悲しみと喪失感に立ち向かう最上の方法なのです」とあったからである。
 夫人はすすんで仕事を見いだすことによって、もはや愛する者との永遠に会うことのできえぬ悲しみに打ち勝とうとされたのである。博士遺愛の書籍が積まれていたであろうあのヨクシャーのお宅で、博士の遣された原稿の整理に寧日なかったようだ。
 そのベロニカ夫人も、昨年(一九八〇年)十月、博士の死から五年にして不帰の旅につかれた。お年は八十七歳前後であられただろう。オール女史のお話では、いたって安らかな死であり、「平穏な、満ちたりた余生を送っておられた」とのことであった。
 今なお私の耳に歴々として響くトインビー博士の快活な声。そして瞼にのこる、穏やかながら、どこか稟としたベロニカ夫人の面影。お二人のことを回想するとき、博士の詩の一節が思いにのぼる。
  かくも親しき伴侶を持てる者にとって、追放も追放とはならない。
  妻の愛情があるところ、いたるところが祖国である。
4  博士は『歴史の研究』によって世界的在名声を博したが、歴史学界の一部には厳しい批判を浴びせる者もあった。しかし、そんなときこそ、ベロニカ夫人が最も力強い支えとなったであろうことが、この詩によってもしのばれるのである。
 いかなる道にせよ、まず身を捨てることによって切り拓かれる。トインビー博士ご夫妻もまた、そういう尊く強い人間の道を貫かれたのだと思えてならない。

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