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日蓮大聖人・池田大作

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″総体革命″を語る″インドの良心″ J…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
5  私は、あえてジレンマと言いたい。インドは、物質文明の飽和に疲れた先進諸国の人びとを魅了してやまぬ、豊かな精神の水脈をたたえている同時に、貧困や飢餓、何千年の歴史の垢にまみれた階級制度などが、それと隣り合わせに深く根を張っている国でもある。ガンジス川で身を清め、黙然と瞑想する人を見て、自らの理解の枠を超えた宗教的世界に、ノスタルジアをかきたてるだけでは、偏った見方であろう。逆に、オールドデリーの、あの圧倒されるような群衆の雑踏と喧騒のどこに、″魂″や″精神″があるのかといぶかる目も、私はもたない。どんなに生活に追われているようにみえても、近代のものさしでは測ることのできないある種の豊かさが、したたかに生きているとも信じている。
 両方とも、つまり最古の伝統を誇る精神文明の継承も現実生活の物的保障も、まぎれもなくインド的課題なのだ。ただ、現在の亀裂の大きさは、両者が秩序だって補完、融合し合うことを、著しく困難にしている。そこには、三百数十年にわたるイギリスによる植民地支配の爪跡が、深く影を落としていることも事実である。心ある人びとは、改めてマハトマ・ガンジー、ネルー亡きあとの、新たな″インドの道″を求めて、必死の努力をつづけているのである。氏の『獄中日記』の抄訳に目をとおしながら、私は改めて二月十一日の感慨を呼び起こした。日記のなかに、自分の来し方を振り返った、次のようなくだりがある。
6  「革命の虫は、私をマルキシズムにおもむかせ、それから民族独立運動を経て民主社会主義へ、次にビノバジ(ビノバ・バーベ)の愛による非暴力革命へと転じていった。ビノバジの列に加わる前に、彼と議論したことによって、私は次のような確信に達したのである。
 ――ビノバジは単に土地の再分配に関心をもっているのではない。それだけではなく、人間と社会の総体的変革に関心をもっているのだ、と。それを私は、かねて二重革命と呼んでいた。つまり、人間革命を経ての社会革命であると」
 ナラヤン氏の精神の遍歴と帰結が、さりげなく語られていて興味深い。氏によれば「総体革命」とは、社会、経済、政治、文化、思想ないし知識、教育、そして精神の七つの柱を組み合わせたものである。もとよりその七つは確定的なものではなく、増やすことも減らすこともできる。たとえば文化革命に教育、思想の革命を含ませるというふうに。
 しかし、私が興味をおぼえたのは、その組み合わせ方、いうなれば革命を現実に推し進めていくさいの″回路″であった。
 「人間革命を経ての社会革命」(ソシアル・レボリューション・スルー・ヒューマン・レボリューション)――。
 それは、若くしてマルクスの革命思想にふれ、一時は師ガンジーの非暴力、不服従運動に反対して武力革命を唱え、実践もし、長じて再び、インドの精神的大地ともいうべき師のふところに帰った、との″良心″の波瀾に富む人生行路がたどりついた終着点であった。
 ナラヤン氏の肺腑の訴えを、理想論として一笑に付す人もいるかもしれない。提唱の当初、インドでも一部、その種の批判がなされたという。しかし私は、批判の前に、なべて十八年におよぶ獄中生活に裏づけられた体験の蓄積に目を注ぐべきだと言いたい。そこにみられる屈折した来歴は、インドのジレンマの大きさと深さとを物語ってあまりある。
 「総体革命」は、論としては未成熟な面も多分にあり、実践的にも試行錯誤を重ねている段階といってよいであろう。にもかかわらず、私がそこに、良心の発露であるぎりぎりの選択を感じたのは、いつに、数十年におよぶ模索の歳月の重みによる。理論面、実践面での未完成は、課題の困難さが、安易に解答を求めることを許さないからだ。短兵急に解決へと走る行き方は、多くのものを犠牲にしていくことを、貴重な体験の贖いをもって、氏は知悉しているのではなかろうか。急進主義的な非難に対して、氏は、師ガンジーとともに、静かに「善いことというものは、カタツムリの速度で動くものである」との言葉を返すにちがいない。
7  政治権力への野心を離れた氏。私邸も公共施設として開放し質素に暮らしゆく老翁。会談中、どこからまぎれてきたのか廊下の壁をリスが走るのを見て、いかにも民衆に開放されたナラヤン邸らしく、ほほえましく思った。
 ナラヤン氏が不帰の客となったのは、その年(一九七九年)の十月八日であった。私が氏の自宅を訪問してから半年余り後のことである。氏の逝去を知ったとき、多くのインドの民はその別れに涙し、インド議会は、その第一報に総立ちになったとも聞いている。まさに″インドの良心″の劇的な死であったといってよい。私も、切々の哀悼の意を込めて、弔電を打った。

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