Nichiren・Ikeda
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清秋の思い出を分かち合う 趙撲初氏
「私の人物観」(池田大作全集第21巻)
前後
2 この日の夜、人民大会堂で寥承志中日友好協会会長、鄧穎超女史(故周恩来総理夫人)が出席されての歓迎宴があった。それを終えて宿舎に帰ったとき、訪中団の通訳の青年が「歓迎宴の席で、趙撲初先生から、預かりました」といって、贈り物を届けてくれた。
そこには、静かにして深く墨痕鮮やかな字がしるされていた。風格のある伸びやかな気品を備えた書体である。私の詩に対する返礼として「賦小詩三章」としたためられ、五言絶句が流麗にしるされていた。
「……中秋月皎々 疑在宝明中 置身蓬莱島」
一首は私の詩を読んでの感想が書かれている。
二首と三首は――
「我は今 君の詩に和し
うちとけて玄妙を談ず
中秋に雨は止まずとも
心の月は常に相照らす
中秋に重陽の日の如く
共に長城に登る
天高く雲高くも
兄弟の情を尽くさず
一九七八年中秋 趙撲初」
さらに、つづきの文字がそのあとにしるされていた。それは五言絶句の詩であった。
「詩成りて 雨急に止む
外に出て 月の出づるを待つ
世界に光明を放つを
君と共に喜ばん」
三首書き終えたところで雨がやみ、この一首を付け加えられたのであろう。こうして四首がしたためられ、重ねて「趙撲初作」と署名されていた。
3 詩作が終わると雨がやみ、氏も今宵の名月を心待ちにしているという心情が伝わって、味わい深かった。
月は雲間に隠れてなかなか姿を現さなかった。私は仕事の合間に宿舎から夜空を見上げたのだが、とうとう北京の満月を仰ぐことはできなかった。が、夜半、たまたま路上に出た訪中団のカメラマンが、美事な巨大な中秋の名月を見たと語ってくれた。それはほんの一瞬、北京の市街を皎々と照らし、その演出の幕を閉じたという。その利那の満月と趙氏は瞬間語り合っていたにちがいない。
遠く奈良時代、遣唐使とともに中国に渡り、在唐五十余年、長安で没した安部仲麿が、故国を偲び詠んだ歌をふと思い出した。
「あまの原ふりさけみれば春日なるみかさの山にいでし月かも」
後日、聞いたことであるが、同じ日、古都奈良は浩然とした満月に明々と照らしだされていたという。三笠山の山かげからまさに月が出ようとするとき、なだらかな山の稜線が緋色に染められて、山火事と見間違うほどだったとのことである。その山の端から、しだいに顔をのぞかせた中秋の月天子は、小さな奈良盆地から仰ぐと、とりわけ大きく美しく見えたことだろう。
去りゆく千二百年の昔を今に、趙氏と私のあいだにも、月を介して国境を超える心のふれあいがあった。
越氏に初めてお会いしたのは、一九七四年五月末、私の第一回訪中の折である。北京空港に中日友好協会の寥承志会長ご夫妻、張香山副会長、孫平化秘書長とともに出迎えてくださった。
その数日後、北京の代表的名園の一つである頣和園に案内していただいたとき、その入口で待っていてくださった。黒っぽい中山服を着られ、杖を手にされていた。
氏は私より二十歳ほど年配であられる。品格があり、端正な顔立ちで、いつも背筋を伸ばし、微笑をたたえておられた。言葉の端々に、中国仏教界の最高の理論家である氏の深い教養がうかがわれた。
園内は鮮やかな緑に包まれ、空は青々と澄み渡っていた。そこの昆明湖に舟を出していただき、周遊した。
氏は、自分の精神の遍歴も話された。
「私は、以前、慈善事業もやりました。戦争の難民や不幸な子供たちの救済を一生懸命やってきました。しかし、私には悩みがありました。当時、私は数百人の不幸な子供を救済しましたが、古い社会は、不幸な人を絶えず出していって、私たちがどんなに努力しても、どうにもなりませんでした」
そうした悲惨にあえいでいた当時の民衆の生活が、新中国建設のなかで、どのように克服されていったかを淡々と語られた。
十五年戦争といわれる日中戦争の時代、氏は二十代、三十代であった。町には、多くの人びとが飢えていた。餓死する人も多かった。
「道端で、飢えと寒さ、病気などで多くの人が死んでいきました。大部分は赤子であり、農民でした。しかし、そうした姿を見ても救う手だてがありませんでした」
煩悶に満ちた氏の若き日が彷彿とするようであった。氏の話は、当時の中国仏教界にもおよんだ。
「仏教には、自分たちで労働し、生産していく伝統がありましたが、封建社会の影響を受け封建のほこりをかぶってしまいました」
良き伝統を失った仏教は、その結果、人民大衆を苦しめる存在に堕していったことも指摘された。率直に仏教の腐敗堕落を語り、仏教の本来の精神は「人民に奉仕する」ことにあると主張されたことが、とくに印象深い。
4 昨年四月、訪日されたときには、東京でお会いする機会があった。中国仏教協会訪日友好代表団の団長としての多忙なスケジュールをさいて訪ねてくださった。
頣和園でお別れするさい「来日されるときには、ぜひ訪ねてください」との私の言葉に「必ずまいります」と言われた。四年後に、そのとおり信義を貴かれたのである。
5 この一月(一九七九年)、第一次創価学会青年部の訪中団が北京へ行った。私は青年たちに趙氏への贈り物を託した。別にこれといったものではない。平凡な一本の杖である。
趙氏からは、黄色い上質の紙にしたためられた次のような「詞」が届いた。
「清秋思い出は深し 良友は真心から
我にすばらしき杖を贈る
その軽きこと片雲をたずさえるが如く
春風に向かえば 心はますます広々と
君とともに万里を行き
社会の太平を楽しまん」