Nichiren・Ikeda
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周恩来首相と桜
「私の人物観」(池田大作全集第21巻)
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4 「私たちには毛主席の指導があります」
会見の席で、周恩来首相は、なんの気負いもなく強調していた。中国にとって最も幸せだったのは、毛沢東と周恩来という二人のあいだに、絶対の同志愛に基づく信頼があったことであろう。
それは革命の歴戦のなかで培ったものにちがいないが、周恩来首相はトップに立たず女房役に徹した。まさに信念とさえいえる。己を知っていたというべきか。
両者の双眸には、終生、虐げられた革命前の民衆の苦悩が映じていたにちがいない。ありとあらゆる方法を講じて人民を守り、尽くす。
この権力の地位にありながら、人民の味方に徹した一点こそ、両者の真骨頂である。
いわば中国の人びとにとって、毛沢東は″父″であり、周恩来は″母″であったといってよい。
「二十世紀の最後の二十五年は、世界にとって最も大事な時期です」
淡々と語る言葉が、今も耳元に鮮やかである。いやそのためにこそ″あのとき″を、強靭な精神と気迫で生き抜いていたのだ、とも思えるのである。
会見は約三十分だったが、私は率直なところ、体は相当弱っており、直観的に長くは生きられないのでは……と感じた。長時間になることを遠慮もした。
「八億の人民のためにもどうぞお大事に」と切に健康を祈らずにはおれなかったものである。
5 計報が世界を駆けたのは、その一年ほど後であった。私は京都にいた。悲しみのなかで、くるべきものがきたとの思いで、終日冥福を祈ったのである。
初めての出会いが、最後の出会いとなった。あのとき、病気をおして会ってくださったのだという実感が、私の胸を強く打った。
五時間の出会いもある。わずか五分間の出会いもある。私自身、五十歳を越え、それこそ数えきれない人と会った。それらすべての人びとが、私の今日へ影響を与えている。その影響の度合いは、共鳴の度合いにもよるであろう。時間の長短を超えたところで、人は互いを知るともいえる。
6 氏は礼節の人であった。帰るさいにもわざわざ玄関まで見送られたのには、恐縮したものである。
「私は五十年前、桜の咲くころに日本を発ちました」
遠く過ぎし方を振り返るような口調に、思わず「ぜひとも桜の花が咲くころ、日本にきてください」と申し上げた。「願望はありますが実現は無理でしょう」との答えだったが、そのとおりになってしまった。
7 訪中で推進した教育交流の一環として、私の創立した大学に、中国の若き友人が留学している。そのキャンパスに、私はその人たちに「周桜」の記念植樹をしてもらった。
くる年も、くる年も、春の日溜まりのなかで桜花が咲く。それは、私にとって″一期一会″の証のように思えてならない。