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日蓮大聖人・池田大作

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生命の探究者 ベルクソン  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
7  第二次世界大戦の前夜である。彼は、迫りくるボルシェヴイズムとナチズムの脅威を、それぞれ無神論と閉じた宗教の帰結ととらえる。殺毅兵器は知的分析の悪魔的所産である。物質的欲望の噴出と快楽への狂乱――。なおかつ彼は、人間を信じつ事つけている。「私は歴史における宿命を信じない。充分に緊張した意志は、もしそれが適時に振舞うならば、どのような障碍でも粉砕し得る。それ故、避けられない歴史的法則というようなものはない」(『道徳と宗教の二源泉』平山高次訳、岩波文庫)との確信を支えていたものこそ、『創造的進化』のエラン・ヴィタールから、エラン・ダムール(愛の飛躍)へと飛翔した、精神の高揚であった。
 愛の飛躍を成し遂げた哲人は、人類愛への熱情に突き動かされて、回生の方途を訴えかける。凶暴化する科学文明をコントロールするには、巨大な精神エネルギーを蓄積し精神文明を興隆する以外にない。そのために要請される人間の生き方は、動的宗教による単純なる生であると――。
 『道徳と宗教の二源泉』と、それ以前の著作とのあいだに、ある種の思索過程の落差があると指摘するむきもあるようだが、私は当たらないと思う。彼の哲学は概念や論理の堅牢を誇るのではなく「生きることが第一」という、生の準則に従っている。彼は「心眼」をとぎすまし、直観の奥底に「何か単純な、無限に単純な、並外れて単純なために哲学者がどうしてもうまく云へないやうなもの」を見つめつづけ「哲学するといふことは単純な行為」とさえ言いきる(『哲学的直観』河野興一訳、岩波文庫)。動的宗教による単純なる生ということは、彼の思索の、忠実在帰結ともいえるのではなかろうか。
 ベルクソンは、その動的宗教の最高峰を、キリスト教の神秘主義に求めている。仏教に関しては、明らかに認識不足な点は否めないが、私は、彼が神秘主義なるものの特質を「行動であり、創造であり、愛」(前出、『道徳と宗教の二源泉』)としている点に注目したい。神秘主義はともかく、宗教的生に発する行動や創造、愛の動的エネルギーこそ、物質科学文明転換の貴重な指標たりうるであろう。「徹底的な経験主義者」が、経験の無限の深みを、ここまで降り来ったことに、私は尊崇の念を禁ずることができない。
8  一九四一年一月、この真摯な哲学者は、永遠の旅路につく。最後まで『物質と記憶』の一節をつぶやいていた。そこで到達した死後存続の確信に、思いをめぐらせていたのであろうか。死の足音を聞きつつ「私は強い好奇心をもって死をまっている」とも語っていた。ユダヤ人との理由から、葬儀も営まれなかった。ナチス占領下の厳寒のパりである。だが、凍てついた大地をたたき破るような、彼の魂の叫びは、混迷の闇が深まるほどに、いっそう人びとの心にこだましつづけていくにちがいない。

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