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日蓮大聖人・池田大作

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東西を結んだ若き情熱 アレキサンダー  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
5  こうしたアレキサンダーの行跡をなぞってみると、彼の遠征に、人類の和合、文化の交流という側面が顔を出してくる。事実、その東征は、人間交流、知識探検という性格ももっていたのである。
 アレキサンダーの遠征軍には、多くの学者が従軍した。未知の地域を測定し、動植物を観測している。エジプト遠征のときにはナイル川を調査し、この川が定期的に氾濫を起こすのは、アビシニア地方の季節的豪雨が原因であることをつきとめたりしているのは興味深い。
 この遠征がヘレニズム時代の地理学、生物学等、自然科学に大きく寄与しているのは、その性格の一端を物語っているのではなかろうか。
 このような俯瞰作業から、アレキサンダーの大まかな人物像が浮かび上がってくるようだ。彼の十二年間の閃光のような日々は、まさしく「戦士」としての性格をもっている。武力の戦士たることは当然である。同時に「文化の戦士」でもあったような思いがするのである。
 占領地の宗教と文化には尊敬を払い、深い理解を示した。港の建設や、国際通貨の制定、追放者復帰令など、広い観点から政治を行おうとした。この思想は、ストア学派が出るにおよんで体系化され、やがてローマ帝国へと引き継がれていく。
 アレキサンダーが出たときは、マケドニアはギリシャの一地方であった。しかし、そのギリシャ文化は、やがてヘレニズム文化を生み出す母体となり、世界の精神史の土壌ともなっていった。アレキサンダーのこの思想が、のちに出るキリストの精神に強い影響を与えているとする考え方も多い。のみならず、今日の科学を支えているギリシャの科学精神も、オリエントの地へ文化を携えて赴いたアレキサンダーの長途の旅に、多くを負うところがあったのである。
6  その戦いの鮮やかさと激しさのゆえに、アレキサン、ダーに敵は多かった。何度か暗殺されそうになり、そのつど切り抜けた。しかし三十二歳、日の出の勢いの若者のとどめを刺したのは、おそらく一匹の蚊であった。高熱に侵され、雄図半ばにして、若き大王は倒れた。しかも、そのあとを継ぐ人材群が彼にはいなかった。天才の悲劇なのかもしれない。
 指揮者にとって、後継のないほど哀しく寂しいものはない。アレキサンダーはどこまでも孤高であった。
 あるいは、悲しくも彼はそれを悟っていたのかもしれない。それゆえに、自分の一代で一切を成し遂げようとしたのであろうか。地道で着実な思想の王道、平和の王道を避けて、武力の覇道に拠ろうとしたところに、彼の失敗と悲劇がある。
 私はアレキサンダーに二つの影を見た。それは古い時代の人としてのアレキサンダーと、未来への方向をもったアレキサンダーである。
 すなわち、アレキサンダー一代で築かれ、それを限りに滅びていった帝国の大王としてのアレキサンダーと、それが発端となって、ヘレニズム文化の多彩な開花があり、東西に文化の興隆が起こり、さらにはローマ帝国の出現へと、世界史が流れ込んでいく、その水源としてのアレキサンダーである。
 前者のアレキサンダーは死んだ。儚い生涯であった。その名がもてはやされる軍国時代も、死んだ。しかし、文化の興隆者としてのアレキサンダーは、いまだ死んでいないと思う。そしてその名を評価する、人類平等の精神文明の時代は、今、暁光が差し込み始めたところであるといえまいか。この陽光が大きく世界を覆うとき初めて、帝国ではなく、人類が志向しているであろう、人間の人間のための世界国家ともいうべき、理想郷が出現するといってよい。
 私は、文化の交流ほど、息の長く、尊い作業はないと考えている。東西に精神の懸け橋を渡すことが、これからのなさねばならぬ、緊要にして永劫の目標である。しかもその主役は一人の王ではなく、広範な民衆である。その意味でアレキサンダーの通った道を逆に、精神の遺産を携えて、互いに交流しあいつつ遡行してみたいというのが、私の夢なのである。

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