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日蓮大聖人・池田大作

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孤高の哲人 デカルト  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

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4  諸説があるが、伝記作者ジルソンによれば(1)諸学問全体の統一、(2)哲学と智慧の和解、おびそれらの基礎的統一、(3)彼自身がその使命を神からうけたという自覚の三つに、還元されるという(竹田篤司著『デカルトの青春』勁草書房)。いずれにせよ、彼の生涯を決する、エポック・メーキングな″事件″であったことは間違いない。
 これほどの大事が『方法序説』のなかで、ほとんど具体的に語られていないということは、興味深い事実である。おそらく明晰性を重んずるデカルトは、そうした神秘主義的体験を語るのを好まなかったのであろう。しかしそれが、彼自身にとって、いかに深刻な内的体験であったかは、イタリアの聖地ロレットへの巡礼や、当時の神秘主義団体「バラ十字会」への関心など、およそこの合理主義者に似つかぬエピソードが伝えられていることからも、明らかである。
 現代の精神的風土からみると、こうした啓示など、うさん臭いものに感じられるかもしれない。しかし私は、すぐれた精神を内より揺り動かす体験には、現代科学をもってしでも覆いきれぬ奥深さがあるように思う。ソクラテスはダイモン(神霊)に憑かれていたし、ゲーテもしばしば、自己をつき動かしてやまぬデモーニッシュ(超自然的)な力について語った。デカルトの内に、そのような力が働いていたと考えても不思議はないであろう。ただ彼は、それを好んで語ることを欲しなかっただけである。ときにデカルト、二十三歳の若さであった。
5  しかし彼は慎重であった。速断と偏見を避け、じつに九年間の長きにわたり、内なる体験を、外との交わり、経験によって錬磨することに努める。その間の精神の遍歴、動揺は、おそらく彼が『省察』のなかで述べているように「足を底につけることもできないし、また水面へ泳ぎ出ることもできないといったような状態」(『世界の大思想1−7 デカルト』所収、桝田啓三郎訳、河出書房新社)であったであろう。
 そして一六二八年、喧騒を避けてオランダに独居した彼は、思索に次ぐ思索の糸を、かの有名なが″コギト″すなわち「私は考える、それゆえに私はある」との一点に結びつけたのである。その堅牢な足場に、彼は両足を踏ん張って立った。まさしく″アルキメデスの支点″であったであろう。精神界のアトラスのごときその姿は、近代的自我の目覚めを告げる暁鐘であり、同時に、近代哲学の広大な流れの礎石をおいたのである。
 炉部屋の啓示以来、九年の歳月を貫くものは、神の束縛から解放された人間が、なお生きる基盤を求め抜く、自立への意志であった。その苦闘の足跡は、″コギト″の名とともに、永遠に人間解放の歴史上から消えることはあるまい。
 いわゆる哲学の″第一原理″を見据えたのちのデカルトの関心は、形而上学を根本として、ほとんど学問全般におよんでいる。若き日の啓示にあった「諸学問の統一」という課題を忠実に実行しようとしたわけだが、ここでは割愛しておきたい。
6  私が、デカルトの思想遍歴に注目する最大の理由は、混沌に直面した彼の目が、まず″内″を向いたということである。自身「運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努め」(前出、『方法序説』)たと述べているように、内面を凝視することが、彼の第一義であった。その点がパスカルと同様、彼を、当時の多くの科学者や数学者と分かつ点であった。彼らが、超一流の科学者でもあっただけに、この事実は、なおさら際立ってくるのである。
 事にあたって自らを省みるということは、人間誰しも困難なものだ。ややもすれば、混乱の渦中に巻き込まれ、右往左往を繰り返してしまう。時代が濃霧に包まれていれば、なおさらのことである。アテナイにおけるソクラテスとともに、デカルトも、ほかならぬ″汝自身″を問うことから出発したのであった。その掘削作業、内面への問いかけの深さが、以後、数百年にわたる彼の哲学の影響性を支えていたといえるであろう。
 だが、その掘削作業は、岩底まで至っていたであろうか。最近の深層心理学は、意識の極限ともいうべき″コギト″をさらに突き抜けたところに、なおかつ大海のような無意識、集合的無意識層が広がっていることを解明している。それは、縦に人類数千年の歴史を通じ、横に世界をも包み込む広がりをもっという。それに対し、デカルトの″コギト″は、あくまで個我であった。「私は考える、それゆえに……」の保証するものは「私」の存立する基盤のみであった。
 事実、オランダに独居してからの彼は、徹底して孤高、不羈ふきの姿勢を貫いている。群衆のなかへ出歩くことはあったが、交わりをもとうとはしなかった。祖国フランスで、オランダにおける彼の居所を知っていたのは、親友のメルセンヌのみである。デカルトの後半生を彩る論争のほとんどは、このメルセンヌを通して行われている。あるとき彼は、親友にこう書き送った。「よく隠れし者、よく生きたり」と。
7  すなわち彼の掘り当てた基盤は、己自身のみ、よく拠って立つことのできる基盤であった。そこには″他者″の介在する余地は、ほとんどない。もとより彼は、良識や理性が、万人に公平に分配されていることを信じてはいた。しかしそれが、人びとの内面でどう繋がり、どう触発されていくかについては論じなかった。そこまでいくと、無意識の次元より発する感性の問題が不可欠となってくるのだが、デカルトは、積極的な関心を示そうとしなかった。例外は、親交のあったエリザベート王女、クリスチーナ女王との数多くの書簡と、晩年の『情念論』だけである。だがそれとても、二人の女性との私的関係のうえから、やむなく公にされているのである。
 思うにデカルトの孤高は、根無し草にも似た現代人の病的な孤高からみれば、よほど健全ではあった。彼の孤高は、世を嫌った厭世家のそれとは遠い。独居の地にしても、人目を避けた山林などではなく、殷賑いんしんを極めていた商都アムステルダムである。そこを拠点に彼は、多くの論敵と渡り合った。
 だが私には、その倨傲きょごうなまでの孤高が、どうしても孤独の影を引きずっているように思えてならない。影は、太陽が中天にあるうちは、あまり目立たない。日が傾き、黄昏時になると、しだいに黒く、長く伸びてくる。
 デカルトの時代は、乱世とはいえ、近代の力強い勃興の足音が迫っていた。その近代は、いまやあまりにも無残な姿をさらしつつある。影は身の数倍にも伸びて、まさに覆い尽くさんばかりである――。
8  ポール・ヴァレリー(フランスの詩人)は、デカルトの″コギト″を「精神の自負と勇気とに『目覚めよ』と呼びかける起床ラッパ」と形容している(『ヴァレリー全集』9所収「デカルト考」野田文夫訳、筑摩書房)。その通りであろう。しかしその音色は、今ではある種の就寝ラッパといえるかもしれない。安らかな眠り、そして新たな目覚めは、はたしてくるのか。ここに、現代のわれわれに課せられた、最大の課題があるであろう。同時にそれは、かの自立、独歩の巨人デカルトへの、最高の敬意ではなかろうか。

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