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日蓮大聖人・池田大作

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魯迅の懊悩と勇気  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
5  文学革命という啓蒙運動を通して、魯迅は中国における新文学の中心的存在となっていく。そして一切の社会悪と筆をもって戦うのである。そのときに作り出した戦法は「雑文」であった。無数のペンネームで、手をかえ品をかえ論陣を張った。筆名百を超えるといわれる。論敵が彼に冠した名を加えると、もっと多くなるだろう。ちなみに魯迅という名もその一つである。
 彼の論陣は、″筆誅″という形容があてはまるほど痛烈なものであった。反動勢力の欺摘、糊塗を次々と剥がしていく激しさは「一刀血を見る」と評されたほどである。神出鬼没、敵を攪乱する鮮やかな論陣は、まさにペンの戦士であった。
 魯迅ほど多くの論敵をもった人も少ない。反革命勢力と正面切って戦っただけでなく、革命勢力のなかの弱点部分に目を背けることもしなかった。プロレタリア文学が事実を歪め、誇張し、真実を覆い隠すのは、いまだ観念の域を出ず大衆から遊離したものだと批判したし、芸術至上主義に対してもまた激しく攻撃した。民族主義の御用学派も、彼の面罵にさらされずにはいられなかった。まさに当たるをさいわいなぎ倒すといったありさまである。なぜそれほどの激しきであったか。
 彼の眼は体制に向けられていたのではないと思う。人間の内部に向けられていたのであろう。それゆえに、精神の昇華を歪め、抑圧し、既定された思考形態を押し付けるいかなる倣慢も、真実を覆い隠し、忍従を強制するいかなる旧弊も、彼には許せなかったのである。単に体制さえ変えればよいというのではない。すべての悪が、彼にとっては攻撃目標だったのであろう。
 彼の、精神への洞察の深さがすべての「悪」を暴露していった。自らが弱小、愚劣であることを知り、その懊悩を突き抜けた強さが、魯迅には漲っている。当たりさわりのない論評は、彼には偽善でしかなかったのである。
 こう考えると、彼の激しさと深さに、一本の絆がみえてくる思いがする。人間の本性を垣間見た強さは、真実の強さである。それはあたかも、死を恐れぬ兵士が突撃するよりも、死の恐怖を知った兵士が突き進む勇気を想起させる。
 知らないで猛進する力は、脆く、儚い。たちまち挫折し、犠牲を生み、人間性を蹂躙してしまう。しかし、苦悩の果てに掴むだ確かな洞察は、強靭にして永続する力をもっ。絶望に陥ってぺンを折るのでもなく、人間に目を背けて猪突するのでもなく、深い確信から発した光を、魯迅は全国民に放ちつづけた。
6  そうした魯迅に、人びとは指導者たることを求める。しかし魯迅は指導者であることを拒否しようとしている。「器ではない」というのが彼の理由であった。しかし「器ではない」と知ることのできる人がいかに少ないことか。また、真実そうではないのに、指導者であると錯覚し、振りかざす人のいかに多いことであろうか。
 魯迅には「器である」とする倣慢が許せなかった。世人にも、自身にも……。なによりも人間の愚劣さ、不完全さを知り過ぎていた。彼は人を「導く」ことを拒否したのではなく、「上から」導くことを拒否したのである。むしろ魯迅は「下僕」として、誠実な自己犠牲をもって中国国民の精神改造に尽くした、真実の意味での「指導者」でもあった。
 晩年、日本の対中国侵略は激しくなる一方であった。日本に留学し、多くの知己をもち、愛情さえ感じていた魯迅は、日本の横暴をどのような気持ちで受け取ったであろうか。なかには日本への敵対などできまいと広言した人もいた。しかし魯迅は、やはり人間を抑圧する勢力と戦うことに変わりはなかった。
 魯迅は国民党側ではなく民族統一戦線を支持したが、組織に属することはしなかった。そして戦いのさなか、急激な死が訪れる。一九三六年、満五十五歳であった。その死は早過ぎたような気がする。彼も無念であったかもしれない。彼の死を待っていたかのような、以後の中国の大変動を、生きていたらどう受け止めたであろうか。
 その死にもかかわらず、魯迅は中国の精神的支柱となりえた。毛沢東率いる新中国にあっても、魯迅の地位は変わらなかった。のみならず、日本においても光彩を放ちつづけている。魯迅の精神の深みは、やはり彼を指導者たらしめたのである。

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