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日蓮大聖人・池田大作

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プラトンとその師ソクラテス  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

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3  ではソクラテスの独創とは何か。
 いうまでもなく「汝自身を知れ」の格言に象徴されるように、古代ギリシャ空前の混迷期にあって、自己知を基盤にして人間の真実のあり方、生き方を再吟味したところにある。いうなれば、万人共通の出発点である。
 彼はこの一点を抜きにしていかに人生を論じ、世界観を高説しようとも、根無し草にも等しいであろうと考えた。もし自分が智者の名に値するとすれば、自らの無知を自覚している、つまり「無知の知」を悟っているからである。――こうして彼は、当時のアテナイを我物顔にしていたソフィストたちのドグマと偏見を、次々に打ち破っていくのである。
 無知を自覚しているがゆえに、知を愛し、知を求める。世間の学者はその自覚がないために、臆見を逞しくしつつも、真実、知を求める心がない。愚かなことである。知(ソフィ)を愛(フィロ)する――ことからフィロソフィー(哲学)の名が起こったことは、周知の事実である。
 いわゆる自己知は、単に哲学の根源であるばかりでなく、人間が人間らしく生きるための根本である。否、本来、哲学とは、ある特別な領域を形成している学問の一分野ではなく、人間が善く生きるためには誰しももたねばならぬものだ――ソクラテスは、このことを、文字通り死をもって後世に示したのである。
 その生き方によって提示された「問い」の鋭さと深さ、そして普遍性こそ、彼の哲学の真骨頂であり、彼が「人類の教師」の名で長く称えられてきた所以もここにある。
 プラトンのあふれるばかりに情熱的な全生涯の足跡を通観してみるとき、私は、彼が師ソクラテスの残した「問い」をどう継承し「回答」を与えていくかと、思い悩んだであろう一本の太い線が感じられてならない。
 もとよりプラトンも、最初は師の思想の忠実な祖述者として出発したであろう。だがソクラテスの問いは、この優れた弟子を単なる祖述者に終わらせない、創造への触発力を秘めていたと私は考える。中期から、とくに後期におけるプラトンの思想を鮮やかに彩るイデア論の展開は、師の「問い」に自分なりの「回答」を模索する、全精力を傾けた試みといえよう。
 たしかにイデア論は、その後さまざまな発展を遂げる観念論の原型とされ、ときに批判、攻撃の矢面に立たされてはきた。しかし私は、彼の思想に観念論などの哲学的範疇を設定するまえに、この試みのもつ重みに目を向けるべきであろうと思う。
 プラトンのイデア論とは、体系化された論理というよりも、人間や社会がよりよく生き、運営されるための根本の条件であった。いわば全人間的営為の残した生命の飛沫といってよい。先に指摘した対話による構成は、なによりの証左である。
4  しかも彼は、師の思想の継承と展開を、単に文字に託し著作として残そうとしただけではない。四十歳を過ぎたころ、青年子弟の教育のために、アテナイの近郊、アカデメイアの園に学園を創設する。
 このアカデメイアの学園は、西暦五二九年、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスの禁令によって廃絶されるまで、じつに九百年間存続しつづけた。そして多くの政治家、数学者、人文学者、生物学者を生み出したのである。
 ヨーロッパにおいてアカデミーの名が学問研究の権戚ある正統の意をもって使われ、そうした権威ある組織の呼称とされているのは、このプラトンのアカデメイア学園の栄光に由来するといえよう。
 教育にとどまらない。青年プラトンの政治への情熱は、晩年に至るまで衰えることを知らなかった。彼は自らの「哲人王」の理想実現をめざして、彼を師と敬愛するデイオンの招きに応じて、六十歳の老齢の身をおしてシュラクサイへ渡っている。残念ながら意図は実を結ばず、彼はその後十数年聞にわたってこの政治的事件に巻き込まれる。『法律』『ティマイオス』など、後半生を飾る数々の著作は、理性の静謐ではなく、生命の激動の所産であった。
 教育にしろ政治にしろ、すぐれて人間の触れ合いのなせる業である。プラトンは、いかなる意味でも独居せる思索の人ではなかった。思索から行動へ、行動から思索へ――八十年の生涯を閉じるまで、絶ゆることなくつづいたこの往復運動こそ、プラトン哲学の真髄であった。
 そして、その壮大な足跡を「哲学とは死の練習である」と一言のもとに喝破した彼の心根を思うとき、若くして出会った師ソクラテスの「生と死」が、常に彼の脳裏から去らなかったにちがいない。その全人格の重みが、イギリスの哲学者ホワイトヘッドをして「ヨーロッパの哲学の伝統はプラトンに対する一連の脚注から成り立っている」といわしめたのであろう。
 私は、この西洋哲学の源としての栄誉は、ソクラテス一人が負うのでもなければ、プラトン一人が担うのでもないと考えている。ソクラテスとプラトン――との二つの人格が一つになったところに、この師弟という一つの存在のなかに、その栄誉は帰せられるべきであると思っている。
 そして、まさにそれこそが、あらゆる歴史の変遷のなかに、不死鳥のように蘇つては、暗雲のなかに人間英知の大空を開いてみせた力の源泉でもあったのであろう。

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