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日蓮大聖人・池田大作

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不滅の巨峰 ゲーテ  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
6  第二に彼は、非凡な直観力の持ち主でもあった。スケールの大きさといい、総合的把握の鋭さといい、生命の鏡ともいうべき磨き抜かれた眼であった。芸術的分野はいうにおよばず、とくに注目したいのはその自然観である。彼が『色彩論』等で、ニュートンに代表される近代科学の動向に執拗な警告を発しつづけたことはよく知られる。主客対立を骨格とする近代科学の方法論が、なによりも自然から「生命」を奪ってしまう危険性を、仏法で説く「依正不二論」にも通ずる眼をもって批判しつづけた。
 なるほど彼には、詩人の直観はあっても立証がなかった。近代科学は彼の批判など歯牙にもかけず独走しつづけた。その結果がどうであったかは問うまでもない。近代科学文明の黄昏がようやく明らかになりつつある現在、二十世紀量子力学界の泰斗ハイゼンベルクがゲーテの自然観を再評価している事実をみるにつけ、私はあらためて大詩人の直観力の鋭さに、思いを馳せざるをえない。
7  第三に、彼の人格像に躍如たるものは、汲めども尽きぬ創造力の発条である。彼の多彩な人生遍歴も、高齢にして恋に身を灼き、筆をとりつ事つけていった姿も、あふれでやまぬ内なる生命力の、創造へと向かう発露であった。
 彼はその創造力を「デモーニッシュ(鬼霊的)なもの」とか「エンテレヒー(不滅生命)」と呼んでいるが、そこに文豪の深い宗教性が秘められていたことを見逃してはなるまい。
 彼は愛弟子エッカーマンに語っている。「これはデエモンに血を系くものであり、はなはだ強大であって人を意のままに動かす。そして、人はたとい、自発的に行動していると信じ込んでいても、識らない間に、これに身を供しているのである。こうした場合、人は往々、一段高い世界統御体の道具、すなわち神々しい影響を収受するに辱しからぬ器とも考えられる」(『ゲーテとの対話』神保光太郎訳、角川書店)と。
 ここに述べられた人間観は、キリスト教とは明確に一線を画し、人間を神にも比すべき高みにおこうとするものである。ほかならぬ人間こそ、エンテレヒーの体現者であるからだ。彼の波澗万丈の生涯はその縮図ともいえよう。
 若きゲーテが身をおいたシュトルム・ウント・ドランクとは、文学にとどまらず、広く旧時代の価値観を否定しようとする、澎湃たるエネルギーの噴出であった。この運動は、その後、古典主義、ローマン主義へとさまざまな紆余曲折をたどるのだが、それは一陣の風でもなければ、巌に砕ける波浪でもなかった。生命を奥底より揺さぶる内なる「嵐と怒濤」であったように思えてならないのだ。
 中世の秩序を示す『神曲』と近代の荒々しい幕開けを告げる『ファウスト』と――。この対極に位置する二つの峰を、新たな連峰へと繋ぐ世紀は、必ずや到来するにちがいないと私は信じている。それはもはやヨーロッパ史の延長というよりも、人類史に希望の夜明けを告げる暁鐘でなければならないであろう。

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