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日蓮大聖人・池田大作

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創造的な愛こそ夫婦の絆  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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4  妻こそ人生最大の友人
 毎秋、私にはひそかに楽しみにしている催しがある。私が創立した創価大学の大学祭である。建学してまだ日の浅い大学だが、もう六回の伝統を刻むまでになった。キャンパスを散策しながら、若々しい生命と触れ合うことは、秋の爽快さを一段と引き立たせてくれるのである。
 大学時代というのは、人生の前半にある“学ぶ時代”の最後であり、今後をあれこれ模索しはじめる時期である。それだけに私は、なるべく具体的な指針といったものを、学生諸君に話しかけるようにしている。今回の創大祭では「友」について話した。 昔から、その人の評価は、その人の友人を見ればわかる──といわれる。自らが周囲の人びとにとって「良き友」であると同時に、自身も「良き友人」とともに大学生活を送り、一生を歩んでもらいたい、と話した。
 妻は人生の伴侶であると同時に、良き友人であるべきだ、と私はつねづね思っている。友であれば当然、互いに助け合うべき存在だ。傷つき、悩んでいるときには励ましの言葉を贈り、うれしいときにはともに喜ぶ、夫にとって妻とはそうあらねばならないだろうし、妻にとっての夫もそうである。
 真の友であれば、苦難を決して避けないだろう。常に前向きで人生の坂を、二人して登っていけるはずだ。不幸な夫婦の多くの場合は、妻が夫の愛玩物であったり、夫が妻の養い手であったりする。良き夫婦とは友人の間柄である。そこには妥協などない。互いの成長のために叱咤もすれば、手も取り合う。
 結婚当初の夢見心地から醒めたころ、互いの欠点が見えはじめたときこそ、自分たちは友なのだと思いなおしてもらいたい。そうすれば欠点を補いあい、指摘しあって、いつも前へ前へと進んでいけることだろう。夫にとっての妻、逆に妻にとっての夫は、人生の最大の友人のはずである。
 また同じく学生諸君に話したことだが、私が青春時代から自らの信念としてきたことの一つは、世界の人類のために尽くそうと思うならば、まず自身の悲哀、苦しみを制覇せよ──ということであった。同じことが家庭についてもいえると思う。
 社会への貢献を願うならば、家庭におけるさまざまな悲哀をまず乗り越えなければならない。家庭を明るく斉めえずしてなにができるだろうか。
 仏法の考え方というのは、いかなる事象もすべて自分自身の一念から出発し、帰着するということを教えたものである。つまり人間のもつ可能性を、自身の内に最大限、見いだそうとしたのである。夫の、妻の嫌いな面ばかり目につき、友としての間柄に立てないのも一念の所作であるし、二人三脚の風を浴びて人生道を爽快に歩むかどうかも、結局は己が一念にかかっている。
 ともかく、幸せを満面にたたえた若いカップルを見るたびに、私は互いに良き友人であれ、どんな苦難に遭遇してもまず家庭を明るく建設してほしい──と願わずにおれない。
 私自身のことで恐縮だが、私の公的な立場のゆえ、夫として、また父親として、世間並みのようには、とてもいかなかった。ただ私たち夫婦には、共通の目的に進む友としての思い遣りがあり、心のかよう理解があった。それがなににもまさる宝であったことを、私はしみじみと感謝している。
5  ふと私の脳裏に、あの森の路の向こうで出会った老夫婦の姿が浮かんできた。あの人たちにも、喜びとともに、なお人生の苦悩はあろう。
 しかし、それら苦悩も二人して育てた心の絆という大樹があれば、日々を生き、明日に憩う力となるのである。たとえ平凡でも、一生という長い友情の坂道を懸命に登りつめていく夫婦は、見ていてすがすがしいものである。

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