Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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平凡に生き抜くことのなかにある非凡さ  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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3  自己の賭けゆく場を持とう、壮絶な鮭の回游のように
 恩師は、このロマンをこよなく愛された。先生の魂魄もまたロマンであられた。いつしか私は昨年の秋、先生の故郷を訪れた時のことを思い出している。折しも恩師の遺徳を顕彰する記念墓苑が完成し、その開苑式に出席したのである。
 先生の故郷は、北海道厚田村である。ここで三歳から十四歳のころまでの最も多感な時期を過ごされた。今では札幌からは車で約一時間の行程だが、二十数年前に初めて恩師とともに厚田を訪れた時は、石狩川を渡し船で渡ったものであった。
 今は大橋がかかり、海岸沿いを一直線に走り、小さな漁村へ行くことができる。
 私はこれまで幾度となく北海道を訪れたが、その時ほど感慨を深くしたことはない。澄み切った秋空が、厚田のうえに広がっていて、すっかり爽快な気分になった。数人の友人とともに、村のあちこちを訪ね歩いた。海岸線は白く光り、都会の喧騒もこの北海の浜にはない。夕刻ともなると、真っ赤な夕陽が日本海に輝き映え、目の覚めるような思いだった。この大いなる自然は、悠久のロマンを秘めて、旅人の私の心を慰める。
 恩師が幼少期を過ごされたという事実だけで、ほのかな、なんとも表現のしようのない歓びと期待が心の底から湧き出てくるから不思議である。
 厚田川の橋のそばで、恩師の感慨にふけっていると、村の人が、川岸のところに鮭が泳いでいる、と談笑していた。川の土堤から足元の水面を見つめると、川は浅く、きれいな砂利底になっている。絵にして飾りたいような、七、八十センチもありそうな鮭が、あちらこちらで泳いでいる。体は左右に平たく、満目黒緑の背に、一点腹が白く光っている。まことに爽やかで美しい。
 一間と離れないところで私たちが見ていても少しも恐れるふうがない。産卵場の下流の浅い淵で、しばらくぶらぶらとしている時期に遭遇したらしい。
 「やっぱり、戻ってきました」と村の人。
 六年前の冬、この川の上流で孵化し、川を下った鮭の子は、海洋のあちらこちらを群れをなして回游し、生まれ故郷に戻ってきたという。後で専門家に聞いたところによると、実際に学者が鮭に標識をつけて調査の結果、鮭の多くは故郷の川に戻っていくようである。
 私はふと思った。人の生涯も鮭に似ていると。恩師も十九歳の時、この厚田の村を出られ、人生の大海を回游され、また故郷に帰ってこられた、と。
 数日後、東京に帰ってきても、そのことが頭にあった。人生にとって、帰れるところがあることは、本当に幸せであると思った。恩師は母なる大地ともいうべき、北海のロマンの地に帰られた。まことに厳粛で、ふさわしい光景である。
 産卵のために故郷の川に帰った鮭は、生まれた子が育って川を下っていくころには、親鮭はもうこの世にはいない。次の世代に夢を託す。広い海原を数年の間回游し、卵の熟するころになると、生まれ故郷にまっしぐらに戻ってくることといい、産卵という大業を果たすために絶食をつづけ、成功の暁には、ほとんど死亡することといい、私は理屈ぬきで壮絶な苦悩と美しさをみる思いがする。
 その情熱とおおらかさは、生物の本能的なもの、とさえ思っている。鮭の執念にも似た回游本能は、自己の賭けゆく場をもつ強みといってよいだろう。本能とはいえ、そこに言い知れぬ胸打つ響きがある。
 私の母や恩師の母上も、伴侶のことや、家業のことが、起因していたことは事実であろうけれども、くる日もくる日も、朝暗いうちから、浜に出て働いたのは、今になって思うことは、母は母なりに、人間として自己の賭けゆく場をみつけていたように思えてならない。
 それゆえか、淡々としていて、自己の境遇に対して、なんの不平も愚痴も、こぼしたという話は、ついぞ聞いていない。
 貧富の差や、容姿がどうであれ、それらを超越した信念に生きる強さと粘りがあるなら、私は、心の豊かさは失われないものだと考えられるようになった。
4  日常のなかに見いだす信念が生き方の美しさを決める
 私の書架に、新田次郎の『芙蓉の人』(文藝春秋)がある。富士山山頂で、高度気象観測に成功し、日本気象観測史に名前を刻んだ野中到氏の夫人のことが描かれている。当時、まだ東京の高台からは、富士山がくっきりと見えていた。富士は澄みきった青空に、白い芙蓉の花を冠したように白雪をいだいて、屹立していた。
 その時には、まだ自分が、その富士の山頂で雪との格闘を味わわなければならないとは、夢にも思っていなかった。女の美徳は耐えること、夫がいかなる道に進もうと、柔順に従うことこそが、女性の道であると信じる明治、大正の典型的な女性であった。
 だが、夫人の胸の内には、夫婦とはいったい何か、女性の真の生き方は、という問いが常に去来していった。それはときには耐えがたい悲しみでさえあった。
 厳冬期の気象観測に生命を燃やし、情熱をかける夫の前に、夫人の心は、子供を育て、家庭を守ることのみで、癒やされるものではなかった。夫人は長女を祖母に預け、富士登頂を決行するにいたる。夏ならいさしらず、極寒の冬である。
 長期間の山頂滞在で二人は重症の高山病に罹っていた。救出された二人の下山を待っていたのは、長女の死であった。
 私は芙蓉の人の生き方の是非を、ここで論ずるつもりは毛頭ない。『人形の家』のノラの日本版のような解釈もしたくない。ただ、芙蓉の人の心情が惻々と伝わってくることだけは確かだ。
 彼女は自分の賭けるものを発見したのかもしれない。信念に対する生き方というものが、じつに小気味よいほどに溢れている。初々しい清冽な情熱を秘めた、生きるということへの、純粋な気持ちが、伝わってくるようである。
 夫への愛の証と人は言うかもしれない。しかし、私は、彼女が夫の観測の仕事をとおして知った、一つの信念に徹するという憧れに賭けたのではないかと思えてならないのだ。彼女の生き方の美しさが、読者に、静かに深く、語りかけるのは、そのあたりに秘密があるとみる。ちょうど、華岡青洲とともにその妻が、医学に賭けていたように。
 一人の女性の生き方を、その内包する生命でとらえるとき、不思議なほどの輝きが増すものである。人は献身を讃え、愛を誇張するかもしれないが、私は女性ならではの、人間らしさの表れだと思っている。
 私は全女性がいつまでも若々しく、瑞々しい純粋な人間の生き方を、身近な生活のなかに、見いだしてもらいたいと切望している。
 人生には坂あり、谷あり、波浪ありである。そこから敗北の裏街道へと進む人もある。また、それらを真っ向から乗り越えて燦々たる太陽を浴びて内実の美しさを湛える人もいる。それは足元にある日常生活のなかに、慧眼と聡明さをもって、人生の究極を見つめ、生涯を何かに賭けるという自分らしき信念があるかどうかにかかっていると、私は考えたいのだ。

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