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日蓮大聖人・池田大作

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世代の温かな交流を通して知恵の体得を  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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5  真の幸福は身近な生活のなかにある
 そのためにも私は、幸福というものは、華美や虚飾の世界にはないということを、申し上げておきたい。そこには、キラキラしたジュラルミンのような冷たさはあっても、愛情や、体温のぬくもりはない。
 私は、若いころに読んだプーシキンの傑作、『オネーギン』を思い出す。ご存じのようにこの小説は、貴族社会の華やかさの裏に隠された倦怠、知的空虚さを鋭くえぐりだしたものである。主人公オネーギンは、その申し子のような青年。彼は、退屈をまぎらすために遊楽三昧の生活を送っている。そうした彼に田舎娘タチヤーナの心は、一気に魅せられてしまう。激しく燃えあがる恋心──。しかしオネーギンにとって、純な乙女心なども、一時のなぐさみものでしかない。表面では兄のように、自分は彼女に値しないとさとすものの、その言葉の裏には冷酷さがにじみでている。タチヤーナの愛は実らず、オネーギンは去る。失意の彼女は不本意な結婚をする。
 ストーリーの紹介は別にして、のちにいまだ独り身の主人公オネーギンが、社交界の女王のごとく振る舞うタチヤーナに会う場面がある。タチヤーナ、今、N公爵夫人は、愛の復元を迫るオネーギンに涙を流しつつ語る。
 「私にとってはこんな花やかさも、いまわしい上流社会の虚飾も、社交界の渦のなかでの成功も、流行の邸宅も夜会も、何の値打ちがありましょう? 私は今すぐにでも、こんな仮装舞踏会のような衣裳や、こんな輝きや騒々しさや息苦しさを、一と棚の書物と、あれはてた庭と、貧弱なあの住居と、はじめて私が、オネーギン様、あなたにお目にかかったあの場所と、今では十字架と木の枝が可哀そうな私の乳母を見おろしているあのつつましいお墓と、喜んで取り変えたいと思います。……仕合せは目の前にありましたのに、手を伸ばせば届くほど近くに……」(池田健太郎訳、岩波文庫)
 私は、この最後の一句が忘れられない。そのとおりだと思う。真の幸福はどこか他の世界にあるのではなく、身近にある。当面する困難を避けて、夢を追うような幻の人生であってはなるまい。一日一日を着実に、地道に生きぬいていくところに、幸福の実像は必ず輝くはずである。そのためにも、夫婦で互いに助け合い、足もとを固めていくことが喜びとなるようになってほしい。
 ニュー・ファミリー誕生の席へ、私もしばしば招待を受けることがある。忙しくて時間がとれず、ほとんど電報などで勘弁してもらっているのだが、時々、揮毫等をしてささやかな贈り物としている場合もある。そのさい、若いカップルの将来を念じつつ“二人桜”とよく記すことにしている。小さな桜の苗も自らを伸ばし花を咲かせる。そのように、マイホームの小さな殻に閉じこもることなく、家庭という社会の最小単位を足場に、二人で力を合わせて困難を乗り越え、桜花の爛漫と咲きほこるような、勝利の人生を歩んでほしいとの、心からの思いを込めたものである。
6  生命から湧き出る知恵で子供を育てぬく自信を
 時が経ち、ニュー・ファミリーの最大の関心事は「教育」となるであろう。
 現代の若い母親たちは、子供の教育に自信を失っているといわれている。必ずしもそうとばかりはいえまいが、それが一方では「過保護教育」となり、他方「母性喪失」という現象を生み出す一因であることも事実である。多発する幼児殺し事件が生んだ“赤ちゃん受難時代”などという言葉が口にされる現状を見るとき、“母”というものを原点に立ち返って考え直す必要を痛感する。 私が訴えたいことは、日本の若い母親たちに、自分が生きぬいてきた人生のなかでつかんだ知恵、──それが素朴と言われてもいい、いちずと言われてもいい、とにかく自分の全生命から湧き出る知恵で子供を育てぬく自信と勇気を取り戻してほしいということである。
 ここに私の知るN婦人の体験がある。看護婦だった彼女はある医師と結ばれた。悲劇はその直後おとずれる。眼底出血で失明。生まれたばかりの男の子を抱えての離婚となった。それこそ文字どおりの闇の人生の始まりといってよい。
 そのなかで彼女は信仰を求めた。三年後、わずかに回復した視力で懸命な人生への挑戦が開始された。看護婦として生計を立てる彼女は、わが子を預けるところもなく、レントゲン室に寝かせては仕事をしたこともあるという。
 貧しく苦しい生活は十数年つづいた。子供に好きなオモチャを買い与えてやれないつらさ、立派な勉強部屋も与えてやれない悲しみ──子供に心でわびながらも、ときに厳しく、ときにやさしく生命からふりしぼる愛を注ぎながらわが子を成人させたのである。
 その子が、やがて難関の司法試験をパスし、法曹界へ巣立つと聞いたとき、私はN婦人の勝利の凱歌を聞く思いがした。加えて私を感動させたのは、その子供が綴った「母に捧ぐ」と題する一詩であった。公開することなど意識にもなく書き綴ったものだから文の巧拙はともかく、そこから匂いたつような心情が胸を打つ。ご家族の了承を得て、その一部を引用してみたい。
 「お母さん あなたはなんてやさしい人なんでしょう お母さん あなたはなんと厳しい人なんでしょう(中略)行き詰ったときには負けてはだめよと励ましてくれ やりとげたときには涙を流して喜んでくれたお母さん 時にはケンカをした事もあった あんなヤツの顔も見たくない! と思ったこともあった でも僕にとってはかけがえのないただ一人のお母さん でも僕にはやることがあります いつか巣立たなければならない時も来るでしょう その時はニッコリと笑って見送って下さい 僕はどこへ行ってもあなたのことを常に考えていると信じて下さい そしていつかは二人で 一緒に世界を歩きましょう その時まで どうか長生きして下さい 百歳までも生きて下さい そのことを願いつつ 今は耐えて耐えてがんばります 見ていて下さい お母さん」
 母は子に何も買い与えられなかったかもしれない。しかし子は母から多くのものを学んだ。必死に生きることがどんなに尊いものかを子は知ったのではなかろうか。
 たしかにN婦人は、ニュー・ファミリーを構成する人たちより、一世代前の母親像かもしれない。しかしそこには、世代を超えて訴えてくるなにものかがある。私は、現在の若い人たちも、これからの長い人生を風雪に耐え、幾重もの年輪を刻みつつ、自ら振り返って「がんばった」と満足できるような悔いなき人生を送っていかれるよう、望んでやまない。

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