Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ソ連の子供たちに未来の光を見て  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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3  ピオネールという課外活動
 学校、家庭、社会が教育の三本柱である、という見方は、今や一般化している。その一つである社会には、その社会全体に子供たちをはぐくもうとする雰囲気が必要なことは、言うまでもない。ソ連の場合、そのことがピオネールという校外活動によくあらわれている。私は十日間の訪ソで、ぜひピオネール宮殿を訪ねてみたいと思っていたが、願いは実現した。モスクワ市内にあるガイダルス記念ピオネール宮殿を訪問したのである。
 宮殿を見学しながら、私はハッと胸をつかれるような場面に出合った。それは一階から二階に案内されているときだった。
 階段の踊り場の壁には、五枚の絵が小さな額に入って飾られていた。澄んだ瞳を輝かせた少年と少女、その肖像画がデッサンで描かれている。絵の一つ一つには、名前が付けられていた。第二次大戦で犠牲になったピオネール(共産主義少年団)のメンバーを偲ぶ悲しい絵である。額の中の絵がすずやかなだけに、よけいに戦争の痛ましさを感ぜざるをえなかった。
 戦争は、どこの国にとっても悲劇をもたらさないではおかないが、ソ連にとっても第二次大戦の惨禍はあまりにも大きかったようだ。残酷なむごい戦争であった。人口の十分の一にあたる二千万人の人びとが生命を失い、千七百余の都市や町、七万を超える村落が破壊された。
 とくに、国境に近いレニングラードの防衛戦は熾烈であった。ナチス・ドイツ軍に包囲され、九百日という長い篭城戦に耐えたが、四十万人を超える市民が餓死をするという惨状であった。当然、老人や子供は田舎に疎開させられる処置がとられていた。しかし、それにもかかわらず、あえて自らの意志で残り、愛する祖国の都市防衛戦に死を賭して戦いぬいたピオネールの少年少女も数多くいた。戦争が終わった時、市には一万五千人のピオネール員がいた。親や兄とともに勇敢に総力戦を戦いぬいたピオネールの子供たちは、暗い塹壕のなか、炸裂する砲弾のもとで、市民たちの希望の灯であり、未来の光であったろう。「君らがいたからだ!」「勝利は、君たちピオネールがもたらした!」。たしかに、少年たちは小さな平和の戦士であり、市民のアイドルであったにちがいない。モスクワの子らも同じであったであろうことは、この五枚の絵が物語っていた。ピオネールはそんな勇敢な平和の戦士をつくるところであってもらいたいものだ。
 さて、話は前後するが、私たちがピオネール宮殿を訪れると、茶色の制服に白いエプロンをした少女、白いシャツに黒ズボンの少年が、すずやかな声で迎えてくれた。ピオネールの象徴である赤いネッカチーフをした宮殿の小さな主人たちは、跳びはねるようにして歩く。私は、ふと、この六月に大の仲良しになった北京の少年宮の友だちの笑顔を思い浮かべた。あの中国のかわいい友人たちも、きっと今日も快活に未来に向かって学び、遊んでいるのだろう、と。少年の心には、大人がつくる拒絶の壁はない。北京もモスクワも東京も、少年少女にとっては、みんな仲の良い一つの同じ町なのだ。
 ピオネール宮殿は、子供たちの課外活動の場である。週に何回か、子供たちはこの宮殿に来て楽しいひとときを過ごしていく。ここには、いろいろなサークルがあった。誰でも好きなサークルに入れる。サッカー、体操、水球、ボクシングなどのスポーツはもとより、ロシア伝統の優雅なバレエ、音楽等々。広いグラウンド、大きな鏡が張られたバレエ教室、四季を通じて泳げるプール、コンサート・ホールも完備している。
 手芸のサークルもあり、子供たちが思い思いに洋服をつくり、裸の人形に着せる工夫を凝らす。マフラー、手袋、チョッキ、スカートなど、興のおもむくままにデザインしたり縫ったり裁断したりしていたが、その作品の一つ一つを見ても、冬の長いモスクワを想起させるものがあり、なかなか興味深く思った。
 やがてモスクワの街は、純白の厚い雪で全身を装う。ロシアの冬将軍は、長い間にわたってロシアの大地を占領する。子供たちの編み物に、手袋やマフラーが多いのも頷ける。
 子供たちが真心込めて作ってくれたお人形を贈られた。両手を広げて抱えるほどの大きな美しい人形で、私は、喜んで頂いた。ロシアの首都にちなんで「モス子」と命名し、日本の幼い友人たちにプレゼントすることを約した。
 「モス子」とは、少々、奇妙な名前のようであるが、日本の子らはこの人形を見るたびに、ジェット機で十時間も飛びつづけるほど遠く離れたモスクワの友を思い出して喜んでくれるのではなかろうか、と思ったからである。“小さな友情”は、必ずや未来に大きく実っていくにちがいない。人形をとおしてのほんのちょっとした出会いではあるが、このようなささやかな出会いの積み重ねによって、日本とソ連の子らが真の兄弟に、姉妹になることを願いたいのである。
4  日ソの子供たちの友情を祈る
 私は、アルバムに記帳を求められ、次のように記した。「二十一世紀の未来の天使の伸びのびとした成長を祈りながら、また日ソの子供たちが、やがて真実の兄弟となることを信じて、この宮殿の発展を心からお祈りします」。これは、私の正直な心であり、願望であった。
 私も、日本の小・中学生から託された絵画約八十点、ならびに鼓笛隊の少女からソ連の子供に届けるように頼まれた「銭太鼓」を贈った。皆、大いに喜んでくれた。そして、言うのであった。
 「ようこそ、ピオネールへ。必ず、日本のお友だちをここに連れてきてください」と。小さな友情は、いずれ、この両国の子らの成長と比例して、大きな大きな友情となって育っていくことであろう。
 「ピオネール」という言葉は英語の「パイオニア(開拓者)」という語に当たり、コムソモール(青年共産同盟)の手で一九二二年に創設された。その指導も、コムソモールの運営委員会によって行われている。ピオネールに入団できるのは広く選ばれた小・中学生で、幼い時代より共産主義的な人間になるように訓練される。身体を鍛えるとともに、政治教育も行われているようだった。共産主義者として団結し、指導しあっていくための教育である。
 ガイダルス記念ピオネール宮殿には、児童五千五百人、先生二百二十六人がいる、ということであった。また、無料で、優秀な作曲家、文学者、スポーツ・コーチらが子供たちの教育にあたっている。その数は、およそ百人にも及ぶ。これらの専門家の親切なかつ卓越した訓育を経て、少年や少女たちは育つ。無料で子供たちを教える人たちの表情がまぶしく映ったものである。
 ピオネール宮殿は、国家の付属機関になっているので、一切の費用は国家予算でまかなわれる。また一九一七年の革命以前のツァーの時代には、五人のうち四人まで文盲で、ロシアは「文盲の国」ともいわれていた。しかし、教育へ力を注いだ結果、今では七歳以上のソ連市民三人のうち一人が学んでいるようになったという。青少年の教育にソ連がきわめて大きな労力をさいていることが窺われた。
 実際、各国とも「武力の競争」ではなく「教育の競争」でも行えば、どんなにか、社会もより良くなるであろうか。前者は破壊と暴力により惨劇をもたらすが、後者は建設と創造により豊かな社会と幸福を呼び寄せる。どこの国でも、子供は大切にされるようではあるが、少なくとも福祉面においては日本よりはソ連のほうがずっと大切にされているように思われる。私はつねづね「文化」とは、武力、権力を用いず、民衆を導く運動と考えている。その意味で教育は文化の中枢を占めなければならない。
 サークル活動のなかで印象に残ったものの一つに体操があった。ちょうど十歳の女の子が、丸い輪のような体操器具を使って練習していたが、まさに見事というほかなかった。世界の女子体操のトップレベルは、今やハイティーン、ならびにローティーンの時代に移ったともいわれているが、このような少女時代から、恵まれた環境で練習をしていれば上達も早いのであろう。オリンピックなどで、ソ連の女子体操チームが小さな妖精たちを輩出し、金メダルをたくさん獲得するのも道理である。
 私は子供たちと語り、一緒に行動することが好きだ。いろんなゲームもあり、ホッケーが盛んなこの国らしく、おもちゃのホッケー・ゲームもあった。子供たちを相手についつい熱を入れ、案内してくださったB・D・モゲルマン所長から「もう時間ですから……」と督促される始末であったが、楽しかった。
 モスクワの街が暮れなずむころ、私たちは、ピオネール宮殿に別れを告げることになった。多くの子供たちが、建物の外まで出てきて送ってくれるのである。
 「ダスビダーニャ!(さようなら!)」という澄んだ声を耳にしながら、私は車中の人となった。遠ざかる車にいつまでも手を振りつづけてくれる小さなモスクワの友人たちを、私は生涯忘れることはないであろう。
 ピオネール宮殿には、学校、家庭、社会の三つを併せもったような雰囲気があった。こうした宮殿やピオネールの家は各地区、各町にある。私にはこうした施設を日常的に誰もが使える環境がうらやましかった。教育には、どんなに費用をかけてもかけすぎることはない。残念ながら日本は大人たちが現在を楽しむことに夢中で、子供たちの未来を楽しむ社会全体の雰囲気が、やや欠けているように思われてならなかった。同時に小さな偉大な可能性の光が、全人類的に結ばれる時、やがて迎える二十一世紀は、生命の光の露に満ちた世紀となるであろうとの感慨にふけっていたのである。

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