Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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建国の未来を担う中国の子供たち  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
4  未来を生活の場にはぐくんでいる国
 グラウンドの周りには塀沿いに「練武場」という名の五体を鍛える場が築かれていた。手すりのない木の吊り橋を渡り、飛び石状になった木の切り株の上を跳びはね、滑車にぶらさがって腕を鍛え、スリルを味わう。子らが楽しみながら鋭敏な運動神経を養い、体力をつくれるように、細やかな配慮がなされていた。
 教室には「花火遊び」「五目並べ」「自転車競走場」「模型飛行機・ラジオ製作室」「卓球場」「音楽教室」「ダンス練習場」等々があり、未来を担う子らが、体力を養い、知恵をつけ、その心身の全体を触発するようになかなかうまく工夫がなされている。
 中国伝統の“胡弓”の合奏を聞かせてもらった。ひとくちに胡弓といっても、大胡、低胡、二胡、楊琴、琵琶など何種類もあり、それらの大小さまざまな胡弓を使って、子供たちが京劇の一部の歌を弾いたり、解放軍の歌を奏でる。アコーディオンあり、笛の見事な二重奏あり、また「私たちは共産主義の跡継ぎである」という歌の合唱ありで、にぎやかであった。 小さなことであっても、それを必ず将来の現実目標と連結させ、目的観をはっきりさせる──これが、中国の教育であるといえよう。そのためにも「老・壮・青」の先輩から解放前の話とか、勤労の話を聞き、学習するという。“古参労働者”を招いて“旧社会”の苦しみを知る、といったふうに……。
 グラウンドの中央の塀近くに、一人の少女の彫像が立っていた。これは、解放前に、地主に首を斬られて殺された少女の記念像である。劉胡蘭という名で、当時十五歳であったという。地主の脅迫に屈しないで「私は共産主義を信じます!」と自らの信念を貫いて倒れていった若い革命英雄の物語を聞かされた。その彫像の台座には「生的偉大、死的光栄」(生は偉大であり、死もまた光栄に包まれている)との毛沢東主席の句が刻まれていた。
 私は、今、隣の国では、徹底した思想教育が幼児のころからあらゆる機会をとおして行われていることを目の当たりにした。この点、一面では、このように少年の時代から完全な思想教育で、いわば“純粋培養”された世代がどのように育っていくか、ということについては一抹の杞憂を感ずる人がいるであろうことも予測される。だが、一方、現在の中国の指導者たちが、未来に確実な路線を敷いておきたいとの強い熱情の発露であることも身にしみてわかったつもりである。
 ともかく、今、中国は“解放後世代”に、彼らの先人たちがいかにして血と涙と汗で解放を勝ち取ったかという歴史的事実を伝え、その革命の精神を世々代々まで連続させ、深化・発展させていくかに心を砕いているように思われる。新しい国を自力更生で建国するために、その次代の担い手である少年少女の教育に、全魂を注いでおり、その作業には、必死なものが感じられる。
 私は、少年宮の先生方は、すべて専任教師であると聞き、少年宮での子供に関する把握と小学校との連携はどうなっているかと聞いてみた。「連携は、密接にされている」ということだった。むしろ、小学校の教師が少年宮での行動を聞きにくるほど熱心であるとか。半年に一度は、定期的に少年宮に父兄、教師を招待して発表会を行うという。
 少年宮は、文芸、科学技術、音楽、舞踊などへの子供たちの個性を全人格的に伸ばし、まったく違う小学校の生徒たちが、短期間でサークル活動において、団体行動を身につけていく場であろう。子供たちが、少年宮で学んだことは、所属の小学校の生徒たちに、子供たちの手によって“再講義”されるわけだ。
5  教育というものの重大さを知悉し、子供の未来にかぎりない期待をかけ、それを現実の生活の場にはぐくんでいる国を、私は自分の目で見た。
 上海にある曹楊新村の幼稚園で、私はかわいらしい幼児たちの踊りの輪に入った。もみじのような手に手をとり、体を小さくすぼめた。見よう見まねで輪を回りながら、私はふとアメリカ、またペルーの子供たちを想い起こしていた。
 いずこの国にも、少年少女たちの瞳が輝いていた。澄みきった青空のように、一点の曇りもなかった。青い瞳、黒い瞳、茶色の瞳……。瞳には国境はない。この瞳の世界を、いよいよ現実のものにしなければならないことをしみじみと感ぜずにはいられない。

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