Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

零歳からの教育  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
3  子供と一緒に考える習慣を
 胎児が母親の感情を直感するように、幼児は、母親の感情の変化を微妙に察知する。そしてそれを自分なりに理解しようとするものである。もちろん、幼児には成人のような理性はないから、わずかな経験をたよりにして一生懸命に“思案”をめぐらすのである。
 私は前に一人の幼児をある期間、ずっと観察してきたことがあるが、そのときに幼児の心理に見いだしたのは、幼児には幼児の原理というものがあるということであった。感情の表し方などを見ていると、大人と変わるところがないのも新しい発見であった。ただ大人と幼児の異なる点は、幼児の心理というのは柔軟性に乏しく、硬い、ある意味で杓子定規なものであるということである。すなわち、幼児にとっては、これまで経験してきたことだけが真理であり基準になって、それにすべてをあてはめて反応し、表現していく。
 よく一般の家庭でも「子供の前ではうかつなことは言えない」とか「子供にはうそをつけない」というが、これなども、幼児の心の世界が、それだけ純粋で清らかであるからであり、母親やまわりの大人の言動というものを盲目的に受け入れていくからである。いやそれだけではない。その吸収力たるや恐るべきものであるが、いったん心の中に刻印された経験というのは絶対的な基準として銘記されていくのである。だから、もしその基準に合わない出来事に遭遇すると、子供は不思議に思い、二歳ぐらいになると「なぜ」という質問を親に発するようになる。これは、幼児が、今まで経験したことのない出来事に対する新鮮な懐疑であったり、また、経験したことであっても、すでに銘記された基準と違った場合に発する疑問である。
 二歳ぐらいになると、経験の記憶はかなりはっきりしてくる。たとえば父親が朝、会社に出かけるときに「今日はおみやげを買ってきてあげますよ」と約束すると、もしおみやげを買ってこなかったら子供は失望する。こういうことが重なると、父親への尊敬と信頼の念はだんだん薄くなってしまうのである。「子供にはうそをつけない」という大人の嘆息は「うそも方便」という諺の通用する大人の世界のさわやかな清涼飲料のようなものといえよう。
 また食事のときに食べ物をこぼすと叱られている子供が、近所の子供が遊びにきて、その子が食べ物をこぼしても注意しないでいると、子供はなぜだろうと疑問に思う。子供の心の世界というのは、そのように純粋で無垢であるとともに、一面、大人のような、融通性、柔軟性というものをもたない。だから近所の子供でも食べ物をこぼしたということについては容赦しないのである。
 私はこの子供の世界の原理というものを母親が理解することが大事であると思う。「なぜ」という疑問を発する子供をうるさがって、適当にいいかげんな答え方ですませてしまおうとするのは、子供の純粋な心を踏みにじることになる。そしてこの子供の世界に入っていけるのは母親しかいないのである。また子供の「なぜ」という疑問に対して、母親がどう対していくかが、幼児教育の一つの要点となる。この時期は、幼児の自我のめざめる時期であり、物事を考えるくせを身につけさせる絶好のチャンスなのである。
 子供は、もともと母親に対しては受け身の存在である。だから「なぜ」という疑問を発するときにも、母から単純明快な答えが返ってくるものと思い込んでいるふしがある。
 このときに即答しないで、答え方にちょっと工夫をこらし、子供と一緒に考えてあげるようにすれば、それは思索の芽を育てるためにはよい訓練となるであろう。
 子供にとって母親のもつ意味はかぎりなく大きいが、母親の存在が子供の自主性を摘み取るようなものであっては断じてならない。子供と一緒に考えるというのも、子供のもつ無限の可能性を開発していく良き相談相手となっていくということである。なぜなら子供の可能性を伸ばすのは、結局、子供自身の努力と忍耐にかかっているからである。
4  忘れられないわが母の教え
 私の母は、もう齢七十半ばを過ぎて、子供を育てる大役をはるか昔に終え、今は余生を静かに送る身となっているが、私が幼いころの母親は、子供の心をじつによく理解する母であった。というより、母の心の中に子供の世界が、そのまま温存されているように思えるほど、私たち子供と母との間には断絶がなかった。
 私の家は、四人の兄と弟二人、妹一人、それに養子がほかに二人いたので、計十二人の大家族であった。
 父は“強情さま”とあだ名されるほど昔気質の人間であったが、母は、この父に仕え、十人の子供の世話を黙々としていた。私の記憶では、母の口から愚痴というものを聞いたことがないほど健気で忍耐づよい母であった。母は家業のノリ製造業が不振になったときも、戦災で二度も家を焼かれたときも、泣き言一つ言わず黙って子供の世話をし、家事を切りまわしていた。
 ある時、その母を囲んで、子供たちみんなでスイカを割って食べたことがあった。子供たちの数だけ均等に割ったスイカをみんなで食べたが、自分の分を食べおえた一人が「お母さんはスイカが嫌いだから僕におくれよ」と言って残ったスイカを食べようとした。母はそのとき「お母さん、スイカ好きになったんだよ」と言って、その場に居合わせなかった子供の分を確保した。そのときの母の表情と声を不思議と今でも覚えているのは、母の公平な愛情に、私自身、幼い心に感動を覚えたからであると思う。
 母は、このことをとおして私たちに平等ということ、また人の迷惑になるような勝手な言動は絶対してはならないことを言外にふくめて、教育してくれたのである。
 また十人もの食欲旺盛な子供をかかえた母は食事にもずいぶんと気を配ってくれていた。費用を余りかけないで、しかもカロリーのある食事をつくってくれたので、誰一人、栄養不足になる子供はいなかった。とくに病弱だった私は、母に人一倍苦労をかけたと思う。
 そのころ、家に一羽のにわとりを飼っていた。そのにわとりの産むタマゴを長男から順番に食べることになっていたのだが、なにしろ大人数なので末っ子まで番がまわるのに幾日もかかってしまう。末っ子は早く番がまわってこないものかと考えるが、これだけはどうにも仕方がない。
 ところがある日、その日の番のまわってきた子供が鶏小屋にタマゴを取りに行くと、なんと四つもあったのである。「きょうは四つも産んでたよ」とうれしそうな声をあげて戻ってきた。予期せぬハプニングにみんな小さな手をたたいて喜んだが、それは母が朝早く起きて、前もってよそで買っておいたものを鶏小屋の中へそっと入れておいたのであった。母は食事のとき、なにくわぬ顔で、みんなのうれしそうな顔を見ていたが、母自身、子の喜ぶ姿を見てうれしかったにちがいない。
 私の記憶に残る母は口数の少ない愛情豊かな女性であった。子供に対しても、いわゆる現代風の教育ママ的なところは微塵もなかった。
 十人の子供に平等に愛情を注ぐことのできた立派な女性であったと、今も誇りに思っている。
 ただ母が、私たちに厳しく教えたことが二つあった。それは“他人の迷惑になるようなことをしてはならない”“うそをついてはならない”という二カ条である。
 なんの変哲もない言葉であるが、私は幼いころに生命にたたきこまれた言葉を、この人生において一瞬も忘れたことはない。

1
3