Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「開かれた家庭」への一歩は対話から  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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4  人生の真理は身近なところに……
 さて話は変わるが、仏教発祥の地であるインドの人たちといえば、きわめて内省的な人びとのように思われがちだが、決してそうではない。インドへ行かれた東大の中根千枝教授も、彼らが話し好きだったと驚かれていたし、そもそもこの地で生まれた仏教の経典は、仏と衆生との対話を集大成したものである。仏教といっても、学校教育のカリキュラムのようなものではなく、病気に悩み、死に脅え、貧しさに苦しんでいる人びとと対話し、共に行動する釈尊の言動が結晶されていったものにほかならない。
 それを伝えるエピソードとして、有名な「毒矢の譬」というのがある。当時、思想家の間で「宇宙は有限か無限か」「霊魂の実体は何か」といった論議がもてはやされていたが、釈尊はそうした論議に加わらず、ひたすら人生の苦と対決していた。それを不満に思った弟子が釈尊に問いただすと「ある人が毒矢に射られたとする。急ぎ医者を迎えたが『まず射たのは誰か』『どんな弓で射たのか』『矢の形はどうか』等と問い、それまで治療をしてはならないと医者に言ったらどうなるか。それを知りえないうちに死んでしまう。まず矢を抜くことが大切なのだ。と同じように、抽象的で無用な論議にふけったとて人生の解決にはならない。その苦しみがどこから起こったものであり、どうすれば解決することができるかを知ることこそ、最も重要なことなのだ」と説いてきかせた、という。
 この話は仏教のきわめて人間的な面を浮き彫りにしていると思う。身近なところに人生の真実はあるのであって、机上の空虚な議論にあるのではないという叫びが聞こえてくるようだ。
 仏教には色心不二という法理がある。「色」というのは赤とか黄といった色をいうのではなく「形あるもの」という意味であり、「心」はその奥にある精神の世界である。肉体、物質と精神の世界は微妙に関連しあっていることを説いた法理である。色法が心法に影響を与える場合もあれば、心法が色法に影響を及ぼす場合もある。精神の豊かさ、聡明さが周囲をいつのまにか大きく転換していくことも教えている。対話という人間的な行動が、家庭を明るく温かくしていくことにもつながり、ひいては社会にも波及していくとするならば、どれほど素晴らしいことか。しかも、私はこのことを非常に強く確信しているのである。
5  優しさと賢明さのある主婦に
 仏教経典のなかに、パターチャーラーという女性の姿が説かれている。彼女は両親の反対を振り切って好きな男性と結婚し、子供をもうける。二人目を身ごもったとき、夫を説得して、両親のもとへ一家で帰ろうとする。ところが途中で嵐に遭い、夫は毒蛇にかまれて死に、子供はハゲタカにさらわれてやっと助かったと思ったら、結局、川にのまれて死んでしまう。一人で実家へたどりついた彼女は、そこで両親と兄まで死んだことを知り、気が狂ったようになる。しかし、仏から、死が人生において避けられぬものだと教えられ、それによって悲しむだけではなく、それをどう乗り越えるかが大切だと教えられる。
 仏法に目覚めたパターチャーラーは、以後、徹底して、人生の問題、生命の問題について人びとと語っていく。とくに、女性の特質として、激情に翻弄されて自己を失いがちな点を自らの体験をとおして語り、小さな自我を克服して、より大きな自己に生きることを教えて、チャンダーやウッタマーといった女性が次々と帰依していくさまが伝えられている。パターチャーラーの貢献は、やがて比丘尼教団を形成するまでにいたる。自らの悲しみを乗り越えて悩める人びとのリーダーにまで変貌していく姿に、私は尊さを感ぜざるをえない。平凡な人間であっても、意識の変革を遂げた人からは、偉大な力が湧き起こるものだと教えているようだ。
 家庭の主婦が、いつもグチばかり並べていて、じめじめした暗い表情でいたらどうだろうか。勤務を終えて帰宅した夫も、ゲンナリしてしまうにちがいない。子供たちもますますテレビに目が向いてしまうのではないだろうか。
 なんといっても優しさと賢明さのあふれている主婦の姿に、私はひかれる。豊富な話題のなかに、人生へのひたむきな姿勢がにじみでているならば、子供たちも、自然と畏敬の念をいだき、団欒のなかにも、充実した家庭教育が展開されるにちがいない。いつもインスタント食品の食事ではなく──もちろん、火星人かどこかの奥さんのことだ──心を込めたディナーを用意し、ひととき家庭座談会を開催してはどうだろうか。
 主婦という字が示すとおり、一家を明るくするも暗くするも、主たる自分にあるのだと自覚をもってほしい。暗い方向へ、対立する方向へ、低俗化へと目を向ければ向けるほど、建設の意欲は失われていく。最初は嫌悪したことであっても、いつのまにかどっぷりと浸ってしまう。明るい談笑の方向へ、未来を見つめ、社会に目を開いていく方向へと舵をとることがあなたの務めであり、先ほど言った色心不二の原理で、事実、家庭そのものが変わってくることは疑いない。
 鏡には表と裏がある。裏がなければ表はない。しかし、いくら鏡の裏を見つめても、像は現れない。表を見なければ自分の姿は映らない。それを人の性格にあてはめるならば、鏡の表は長所で裏が短所であるといえないだろうか。男性には男性の、そして女性には女性の長所と短所がある。たとえば、さっぱりして大きくものごとをとらえるが、ちゃらんぽらんで楽観的すぎるのが男性なら、細かく気がつき真面目だが、見る目が狭く、木を見て森を見ないのが女性の特徴だといえなくもない。
 その欠点を補いあい、長所へと転じていくのが対話という作業ではないだろうか。ともすれば気づかないうちに鏡の裏をのぞいている自分を気づかせてくれる存在があってこそ、成長も変革もあるはずである。話し合う──この最初の一歩が、同時に女性解放、というより人間解放という人間にとって最大の山の頂上を極める最後の一歩ではないかとさえ、私は思っている。
 私は人と話すことがこのうえなく好きである。一人の人と話すことはその人の人生に触れることであり、その人を自分のなかに吸収できるからなのだろう。私は今年も、いや一生、誰かれを問わず肩をたたいて話しかけていくにちがいない。そしてそれが社会の隅々にまで行きわたったとき、どれほど潤いのある、相互理解の世界を創りだしてくれることであろうか──私の初夢は、今年もとめどもなく広がっていくようである。

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