Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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愛情と理解を深める対話  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
3  自己を失わない女性として
 それはともあれ、家庭生活の良否は、ひとえに、そこに住む人の人間性、人間味によって決まるものである。ゆえに家庭生活を豊かにするうえで最も大切なことは、家庭の柱ともなっていく夫と妻の、人間的向上への絶えざる努力にあるといえるだろう。
 この点に関して夫は、社会にあって、常に向上していくことを、強く要請されている。それに対して、家庭のなかだけに生きる妻は、ともすれば、家族同士の愛情に甘えを起こして、その意欲を欠いたままに、なんとか、その日その日を過ごしてしまう場合が少なくないようだ。
 私には、さらにその深いところに、妻という個人、一個の人格としての自覚の消滅が原因しているのではないかと思えてならない。すなわち、これまで、ふつう女性は結婚をすれば、夫が社会で立派になってくれればよい、自分はその陰の力にすぎない、あるいは子供が立派になってくれることが目的で、自分はどうでもよいという考え方を当然のこととしてきた。
 それはそれで、妻なり母としての女性の美徳とされてきたのだが、その結果が、自己の人間としての成長への努力も、自己の人格の尊厳への自覚も放棄することになった。
 そうした、個人としての自覚や、人間的成長への意欲を失った妻なり母は、ありがたい存在ではあっても、尊敬心を呼び起こさせ、かぎりない魅力をたたえた存在ではなくなってしまうものである。この、自己というものの放棄が、便利になった現代の家庭では、口の悪い人が言う「三食昼寝つきの永久就職」ということになるわけである。
 私は、いつになっても「自己を失わない女性」像を、とくに、これから人生を演出していく若い女性には望みたい。結婚したとたんに、結婚前の、あのハツラツとした、周囲に生きる喜びをふりまいていた生命の張りを失い、ただ安逸と倦怠のなかに陥っていく姿に接すると、人生の無常すら感ずるものである。
 一個の人格をもった人間として生きていくには、それ相当の、精神の緊張と、戦いとが必要である。そして、その精神の緊張が、一個の人間としての魅力を醸しだしていく。ピアノの基礎的レッスンを放棄したピアニストは、ピアニストとしては死滅する。スポーツ選手にしても、俳優にしても、皆同じことだ。その原理は、そのまま、一個の女性としての魅力をたもっていく秘訣にも通じていくだろう。
 家族への温かい愛情とともに、常に自己への誇りと研鑚を忘れないことが、家庭の真の主体者たる妻に要請されるのである。その妻の姿のなかに、夫たる男性は、かぎりない魅力を感じ、豊かな人格をみることだろう。
4  夫、妻の心を知るための会話を
 何度も繰り返すようだが、夫の人格と妻の人格との共同作業によって、家庭は維持されていく。夫も妻も、家庭という一つの非人格的なある存在のなかに、自己の人格を消滅して、融合するのではない。
 かつて結婚は、家庭と家庭の結合という面が多分にみられた。そこでは“家”というものが“人間”の人格を呑み込んでいたわけである。今日、私たちがめざす理想の家庭は、それとはまったく異なるものになる。「ウチ」があって「ヒト」がいない家庭は、もはや家庭の名に値しないと、私は言いたいのである。
 さらにまた考えてみれば、およそこの世の中で、家庭ほど、赤裸々な人間像が浮かび上がるところはないといえるだろう。それは、最も人が気を許し、自己をさらけだす場が家庭だからだ。したがって、最も不幸な姿、醜い人間性が露呈される場も、ほかならぬ家庭である。それゆえ、弛緩した人間性が、その醜い面をむきだしにして絡み合っていくなら、そこに、目を覆うような惨劇が展開していくのは必然といえるだろう。
 また反対に、一人ひとりの努力と誠意があるなら、どんな小さなものでも、そこに、必ず美しい花を咲かせ見事な実を結んでいくのも、この家庭という小さな社会の特徴である。どのような人間像を家庭に築くかは、お互いのわずかな心づかいによって決まるだろう。
 人と人との温かい交流の場として、互いが互いのうちに、豊かな人格をみ、互いに尊敬しあい、学びあい、守りあっていく家庭を、私は心から期待したい。
 なお、若い人びとのために、愛情と理解を深めるための夫婦間の対話はいかにあるべきかについて触れるならば、私は、とりたててむずかしく考える必要はないと考えている。それぞれの生活のなかで、ふと心を動かされたこと、楽しく思ったこと、つらく思ったことを、そのままに表現していくところに、尽きない話が展開されていくものだ。その人が心を動かされたことを語るとき、それは、そのまま、その人自身の人柄を表しているからであり、その心を深く知るところに、また新たな愛情がわいてくるからである。
 よく、夫を理解するために、ということで、夫の仕事について根掘り葉掘りたずねる人の話を耳にするが、これには私は賛成しかねる。なぜなら、結婚した相手は、夫自身であって、夫の仕事ではないはずだからだ。そして夫の仕事を知ることは、夫自身を知ることには、直接つながらないからである。
 夫にとってみれば、仕事に疲れて帰ってきた家で、重ねてそれが話題にされることは、苦痛である場合が多い。まして、仕事についての評価などがなされたりしたのでは、なんのためのわが家かわからないということになるであろう。家庭は、先に述べたとおり、夫自身の生命を養い、充実させる場であるはずである。
 つまり、夫その人、妻その人の心を知るための会話が望ましいのではないかということだ。そしてそれは、あんがい身近なところにあるものなのである。

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