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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 美と創造の世界  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

前後
12  井上靖氏との友誼
 池田 ところで、先ほど常先生が井上靖氏の名作『敦煌』の映画のお話をされていましたが、文化大革命後に、井上氏が初めて敦煌に行かれたときも、常先生はご一緒だったとうかがいました。
  一九七八年(昭和五十三年)五月、井上靖先生、夫人の芙美さんと、清水正夫氏(松山バレエ団団長、日本中国友好協会理事長)と夫人の松山樹子さん(同団副団長)が孫平化同志(中日友好協会会長)の案内で初めてみえました。これは文革(文化大革命)後、敦煌が初めて開放されたケースでした。井上夫妻と清水夫妻は、敦煌を真剣に参観しました。敦煌の石窟をはじめとして、砂漠上の一草一木までとても興味をもたれていました。
 私もお供して、玉門関まで参観に行きました。玉門関は敦煌から八十キロ余り離れているところにあります。当時、車の道がなく、車はずっとゴビ灘の上を走っておりました。とても揺れて、後で、芙美夫人が冗談でこう言いました。「今度来るときには、頭の上にもっと何枚かの帽子をかぶせなくては」と。これには皆が大笑いしました。私たちは漢の長城のもとにピクニックをしました。井上夫妻はいつも上機嫌で、和やかに談笑します。芙美夫人はとくに砂漠にある植物にたいへん興味をもっています。
 二回目は一九七九年(昭和五十四年)の十月四日。私たちは蘭州より出発。シルクロードに沿って敦煌へ向かいました。車で河西回廊に沿ってテレビ・シリーズ「シルクロード」の撮影に行ったときのことです。この折の井上靖先生が私にいちばん深い印象をあたえました。
 車がゴビ灘を走っているとき、井上先生はつねに周りの大自然の景色を、つぶさに観察しています。ときには車を止めて撮影を行います。そのとき、彼はいつも携帯しているティッシュペーパーで顔や髪の毛などをふき、そして小さな櫛できちんと髪の毛を梳かします。
 また井上先生は、つねに小さなノートに、詩や文章などを書かれていました。あるとき、私たちは「布隆吉」という風の名所で、ゴビ特有の龍巻「沙龍」の撮影を準備していました。私たちと、NHKの取材班、中国中央テレビ局の皆が、おなかをすかして、ひたすら風の吹くのを待っていました。午前から午後までずっと待っていても、いっこうに風が吹いてくれませんでした。もっていた食べ物は少しの果物とジュースでした。皆のおなかが鳴っているときに、井上先生だけが何ともないように、落ち着いて詩を書きつづけていました。
 やっと大風が吹き始めました。井上先生と私たちは一緒に廃墟の土台に登り、古代の人々と同じように「沙龍」を見ました。広大なゴビ灘の上を、大きな龍が舞い踊っているように、龍巻が砂を吸い込んで空へ運んでいきました。
 皆が大喜びでした。カメラマンはすぐテレビカメラで記録し、井上先生はすぐその印象を詩文で自分のノートに記されました。このような思い出が蘇ると、昨日の出来事のような気がします。
 池田 井上氏とは、日本の伝統の美、日中の真実の友好の在り方、氏の作品『蒼き狼』などについて、たいへんに楽しく語り合いました。その誠実な人柄も印象深いものでした。(「聖教新聞」一九七五年三月五日付参照)
 また、一年間、書簡を交わしたこともありました。それは、ちょうど私が第三次の貴国訪問を終えて、帰国したとき(一九七五年)から、翌年春までのあいだのことでした。この間には周恩来総理の逝去もありました。私も所懐をつづりましたが、氏の周総理の人柄をしのんだ文章は感銘深いものでした。「礼儀正しく、心優しい世界の大きな星が落ちた感じ」(往復書簡『四季の雁書』潮出版社=本巻一七一㌻参照)という言葉は、私の実感でもありました。
 この往復書簡をとおして、私は氏から多くのことを学ぶことができました。その一つは、長江を見たときのご自身の感慨のなかにある、氏の文学に対する姿勢です。滔々と流れている悠久の大河。その壮んな大きい流れの岸で、何人かの女の人たちが甕を洗っている。その姿を目にして「一人の文学の徒として、いつでも永遠に触れたところで仕事をしていたい」「永遠を信じ、人間を信じ、人間が造る社会を信じ、中国の女の人たちが手を赤くして甕を洗っていたように、私もまた手を赤くして自分の文章を綴りたい」(同前=本巻二七㌻参照)との心情を吐露されていました。
 そうした思いは小説『敦煌』などの作品にも流れていますし、敦煌やシルクロードの紀行文からも感じます。これらの文章をとおして、井上氏の文学の根っこにあるものがより深く理解できたように思います。
13  恒久平和を願って
 池田 常先生は何回か日本を訪問されていますね。今まで訪問されたところで、どこが最も印象的でしたか。
  私は七回、訪問しました。一回目は一九五七年(昭和三十二年)十二月二十一日から翌年の二月五日まででした。その折は、東京、京都、奈良、大阪、名古屋にまいりました。二回目は一九七九年十月二十六日から十一月十二日まで。東京、京都、奈良、大阪、福岡へ行きました。
 次は一九八三年四月十日から十月末まで。途中、全国政治協商会議に出席するため一時帰国しましたので、厳密にいうと二回訪日したことになりました。そのときは東京、京都、奈良のほか、北海道の札幌、根室から納沙布岬、そして東北の青森、仙台、岡山まで回りました。五回目は一九八五年七月から十月、東京、奈良へ。六回目は一九八六年八月。やはり東京、奈良。七回目も同じく東京、奈良コースで、一九八八年四月九日から十七日まででした。
 印象の最も深い都市は京都と奈良です。ともに古代文化を所有している都市です。市内には多くの文化遺跡が保存されており、一つ一つが中国文化と密接な関係をもっていました。たとえば奈良時代の法隆寺の壁画です。一九五七年、私が日本を訪問したとき、一九四七年に模写された法隆寺金堂壁画を見ることができました。これらの壁画は、中国敦煌の壁画によく似ているということも聞きました。京都と奈良を訪問している間、これらの地の仏教美術遺産と中国芸術との密接な歴史的関係を知ると、印象が一層深くなりました。敦煌の仕事を四、五十年間やってきましたので、敦煌に近い文化芸術を拝見すると、なんともいえない特別な親近感がわいてくるのです。
 池田 常先生は日本の各都市で、幅広く各界各層の人と交流されてまいりましたが、日本と中国との友好往来について、どのような感想、展望をおもちですか。
  戦争が好きな人はいません。だれでも戦争が嫌いです。とくに中日両国世々代々の友好を望んでいます。私たちは、池田先生の平和友好の構想に共感します。また平和・友好往来を増進するためには、口先だけにとどまってはいけない。そのために、実際に何かをやらなければいけないと思います。
 池田先生は、中国を何回も(一九九〇年〈平成二年〉五月に第七次の訪中)、訪問されたとうかがっていますが、どのような印象をもたれたでしょうか。また先生が中国で会われた人で最も印象深い人はだれでしたか。
 池田 そうですね。たくさんの印象深い方がおられますが、やはり中日友好協会の廖承志会長は忘れられない方です。一九七四年(昭和四十九年)に初めて貴国を訪問したとき、夜の十時近くでしたが、北京空港に出迎えてくださった光景を今でも覚えております。廖承志先生は流暢な日本語で私たちを歓迎してくれました。また現在の孫平化会長には貴国を訪問するたびにお世話になりました。これまでに私は、北京、上海、西安、広州、武漢、南京、鄭州、杭州、蘇州、無錫、桂林などを訪れました。
 その折々の印象については、さまざまな機会に書きつづり、話してきましたが、要約して言えば、中国は限りない未来性をもつ国である。そして社会制度、民族性、風俗習慣などの違いはあっても、人間の奥には共通の光があるということでした。
 中国と日本は、それぞれ異なる条件のもとに、固有の社会を築いてきましたが、表面に現れているのは、その一部であって、民衆のなかへ、人間のなかへ入っていくと、共感と信頼感が生まれ、心の絆が結ばれていくことを実感しました。
 お会いした方々は、周総理、鄧小平副総理、李先念副総理、胡耀邦総書記、華国鋒主席、王震国家副主席、鄧穎超先生ら国家の指導者として活躍されてきた人々もおります。江沢民総書記、李鵬首相とも会見しました。
 廖承志・前会長、孫平化・現会長をはじめ中日友好協会のお一人お一人には、さまざまな思い出があります。北京大学、復旦大学、武漢大学などの先生方とも長く交流してまいりました。文学、芸術界にも親しい友人、尊敬する方々が多くいます。
 中国では、農村、工場、学校、少年宮など人々の生活の場を広く参観させていただきましたが、そうしたところでお会いした方、また、名前も知らない通りすがりの人で、忘れがたい印象を残している人もいます。
 こうした多くの人々のなかで、最も印象深い人は、とのご質問ですが、お会いしたお一人お一人が、私にとっては大切な友人であり、ちょっと難問です。(笑い)
 ただ、私はこうした出会いのなかで、共鳴したこと、学んだこと、日本人が知らなければならないことなどを、多くの機会に書いたり、話してまいりました。そのことをとおして、中国への理解が深まり、友好が強まっていくことに少しでも寄与できればと願ってまいりました。
  池田先生は最も早く日中の国交回復を提唱されたとうかがっています。なぜ中国に対して、このように深い感情をいだかれるようになったのでしょうか。
 池田 直接の動機となった少年時代の出来事、また恩師の私への言葉は、すでにお話ししたとおりです。アジアの地は、戦火と悲惨の歴史が繰り返されてきたといっても過言ではありません。永遠にわたる世界の平和を展望するうえで、世界人口の半数を占めるアジア諸国の安定と繁栄がきわめて重要であることは論をまたないところです。
 中国と日本とは、文化的にもどこの国よりも深い関係をもつ兄と弟の間柄です。このような歴史的な関係、民族性や文化の相似性からいっても、私は日中の友好は自然な流れである。短絡的な見方であってはならない。もっと長期的な未来を展望した見方から発想しなくてはならない、とかねがね考えつづけてきました。
 そこで一九六八年(昭和四十三年)の九月八日、第十一回創価学会学生部総会の席上、約二万人の学生たちに、日中の国交正常化と平和友好を訴えた次第です。私としては二十年、三十年先の世界に思いをめぐらしつつ、発言をしたつもりです。今では、そのころの学生たちも、壮年になりました(笑い)。そのなかにも日中友好の土台として、活躍している多くの人々がいることを、私はたいへんにうれしく思っております。
 日本の長い戦争が終わったとき、私は十七歳でした。東京の大空襲も体験し、長兄も戦争で失いました。私たちの世代は軍国主義教育を受けてきましたが、日本軍の侵略によって中国の民衆が、また朝鮮半島(韓半島)の民衆が、どれほどの苦しみを受けてきたのか、ということを絶対に忘れてはなりません。
 私は一九六五年(昭和四十年)の元旦から、新聞に小説『人間革命』の連載を始めました。その冒頭の一節は、前年の十二月、沖縄で書きました。沖縄はあの戦争の折、“鉄の暴風”と形容されるほどの、すさまじい砲弾を受けて、多くの犠牲者を出したところです。
 冒頭に私は、こう書きました。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた。愚かな指導者たちに、ひきいられた国民もまた、まことにあわれである」――このことは、あの戦争を体験した私の痛切な実感でした。
 私どもの経験した悲劇を、若い世代には、絶対に二度と体験させてはなりません。一九六八年の提言は、ベトナム戦争が泥沼の状況下にあったときに行ったものです。私は中国との国交正常化はアジアの平和にとって最優先すべきものであり、戦争に直接、関係をもたない若い世代にまで、戦争の傷を残したままであってはならない。青年たちのために、二十一世紀のために、なんとか友好の道だけは残しておかねばならないという思いがありました。
 私は青年たちに「やがて諸君たちが社会の中核となったときには、日本の青年も、中国の青年もともに手を取り合い、明るい社会の建設に笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない。この日本と中国の友好を軸に、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合い、守り合っていくようになったときこそ、今日アジアをおおう戦争の残虐と貧困の暗雲が吹き払われ、希望と幸せの陽光が、燦々と降り注ぐ時代である」と訴えました。
 その翌年には小説『人間革命』(「聖教新聞」一九六九年六月二十日付)の中で、日本は中国と「日中平和友好条約」の締結を万難を排して進めるべきであると提言いたしました。
 多くの日中友好を願う両国の方々の尽力により、この条約は一九七八年(昭和五十三年)に北京で調印され、十月には貴国から鄧小平副総理をはじめとする代表団が来日されました。今は亡き廖承志先生もご一緒に来ておられました。そして十月二十三日に同条約は発効いたしました。その日から十数年の歳月が過ぎ去りました。
 発効十周年という歴史の節目にあたって、私たちは、日中の平和友好に最大に貢献してこられた中日友好協会の孫平化会長はじめ協会の代表の方をご招待させていただきました。歓迎の席で、私は交流が拡大していくなかで、さまざまな歪みが生じたり、新しい問題が起きてくることは、一面では避けられないことかもしれない。しかし、いよいよ世界的な平和の曙光が見られる時代に入った。ともかく平和な交流の拡大は人々の希望であり、願望であると申し上げました。
 私はこの条約の締結を提言した一人として、平和を願う中国の皆さまとともに、信義と友誼の交流を、さらに広げてまいりたい。そして日中友好が深い深い絆で結ばれ、平和への流れが永遠なる大河となるために、私は私の立場で尽力していく所存です。
14  エピローグ
 (一九九〇年〈平成二年〉六月一日、池田名誉会長の第七次訪中の最終日、北京の宿舎・釣魚台国賓館での対話)
 池田 常先生と初めてお会いした春(一九八〇年〈昭和五十五年〉四月、第五次訪中の折)から、ちょうど十年がたちました。
  池田先生との間には、言葉に尽くせぬ深い深い不思議な縁を感じます。十年間で、こんなにも友好は深くなりました。このうれしさを私は表現するすべを知りません。これからもさらに池田先生との友情を深めたいのです。
 池田 私たちの対談が月刊誌の「大白蓮華」(一九九〇年一月号から七月号まで)に掲載されてきましたが、たいへんに反響が大きく、編集部からも要望があり、連載が当初の予定より延長されました。秋には日本で発刊される予定であり、将来は各国語にも翻訳されることになると思います。(一九九〇年十月『敦煌の光彩』として徳間書店より発刊。一九九一年十二月、中国語版発刊)
  池田先生のおかげで、私たちのこれまでの努力が日本、世界の人に紹介され、歴史に残っていくことは本当にありがたいことです。
 池田 私は、芸術に捧げきった“文化の帝王”の崇高な魂を、ぜひとも後世に伝えたいのです。秋には、またご子息の作品とともに「常書鴻・嘉煌父子絵画展」(静岡・富士美術館、十一月二日―二十五日)が開催されます。その折のご訪日を心待ちにしております。(アルバムをみせながら)創価大学の常書鴻夫婦桜(夫妻を記念して創価大学のキャンパスに植樹された)もこんなに大きくなりました。
  ありがとうございました。秋の絵画展の出品目録をお渡しいたします。
 池田 お国の“宝”ともいうべき貴重な作品を本当にありがとうございます。常先生は“シルクロードの宝石”敦煌の守り人です。本来なら、悠々と送れたはずの安楽の人生コースを投げ捨てて、砂漠に埋もれた永遠の美の宝石を発掘し、研究・保護されました。先生なくしては敦煌の光彩が、世界に放たれることはありませんでした。
 いかなる権力者、富豪よりも、人類に対する偉大な貢献をなされました。「陰徳あれば陽報あり」と、お国の言葉にあります。今、これまでのご苦労が、燦然たる陽報に変わり始めました。私には先生に贈る“天の喝采”が聞こえるようです。
  感謝にたえません。私の雅号は「大漠痴人」といいます。“敦煌気ちがい”という意味です。あらゆる艱難辛苦がありました。歯を食いしばって、ここまで生きてきました。最初は水もない、食料もない、そんなところに何をしに行くのだ、死んでしまうと皆に反対されました。去った人もいました。けれども、ここにいる妻は一緒に生きてくれました。苦しいことばかりがありました。私は決して自分のために行ったのではありません。祖国と人類の文化のためです。どうしても、あのすばらしい芸術を守りたかった……。
 池田 先生の(一九四三年〈昭和十八年〉以来の)半世紀にわたる“敦煌ひとすじ”のご献身は、いかなるドラマよりも感動的です。いずこの世界にあっても“――気ちがい”とさえいわれるほど「徹した人」が一人いれば栄える。勝利するものです。
  私が申し上げたいのは、名誉会長にお会いするたびに、魂が揺さぶられるような感無量の思いがこみあげてくるということです。それは先生が、世界の平和のため、文化と芸術のため、中日の友好のために、あらゆる批判も障害も越えて戦われる姿に、私の一生が二重写しのように振り返られるからです。
 先生が言われたとおり、近年になって光が差し始めました。耐えに耐えて進めてきた仕事も、多くの人の協力で軌道に乗ってきました。子どもたちも大きくなりました。これまでの言い尽くせぬ苦しみも、今となれば、すべて報われたという気持ちです。
 人の一生は短く、理想や目標を、そのまま実現できる人は少ない。しかし幸運にも私は、ある程度、実現することができました。悔いはありません。
 先生も同様のお気持ちではないかと私は思っているのです。理想の実現に向かって進むには、人には見えない困難があります。だれも知らないところで辛苦を重ねねばならない。私の経験からみても、池田先生の大きなお仕事にどれほどのご苦労があったことか。それを思うと万感胸に迫ってくるのです。
 池田 常先生の今のお言葉は、私の胸の奥の部屋から一生涯、離れることはないでしょう。
  先生、敦煌にぜひ来てください。
 池田 願望はあるのですが――。
 先生との対談の連載を読んで、私の妻が言うのです。「常先生のお話のところでは、情景が絵のように浮かんでくる」(笑い)と。やはり実際に行ってみないと、知識だけでは、だめのようです。
 ところで先生が敦煌の莫高窟の内部に初めて足を踏み入れられたのは、たしか……。
  三十八歳のときです。ここにいる息子より少し若いころでした。
 池田 最初の瞬間、何を感じられましたか。
  そのとき、私は、別世界を見ました。それまで(フランス等で)絵を学んできましたが、見たこともないすばらしい芸術の世界が、そこにありました。次の瞬間、私は決意していました。これら“美の女神”を、ゴビのなかに埋もれたままにしておくことはできない。私が守っていこうと。
 池田 貴重な歴史の証言です。
  私どもが以前住んでいた古い家を甘粛省政府(中国西北部、敦煌のある省)で修復し、記念館にしてくれると言われています。そこに池田先生ご夫妻をご案内したいのです。
 池田 ありがとうございます。まさに“宝の家”です。
  その旧居は、寺院の後庭にある小さな家でした。行った当時は、机もベッドもなく、土を固めたレンガ状態のもので台を作り、その上にむしろを敷き、麦ワラを置き、布をかぶせて寝台にしました。机も土を固めて作り、上に石灰を塗りました。窓には紙が張ってあるだけでした。電気もなく、壁に穴をあけて本棚にしました。食事にもこと欠く日々でした。
 池田 ご苦労はこれまでにもうかがってきましたが、あらためて、文化の遺産を人類に残しゆくための深いご苦労を感じました。偉大な仕事をなさる人は、黙々と苦しみながら、それに耐えて、偉業の達成をするものです。利害や名聞のために動く人は決して偉大な仕事はできない。その人たちは陰の苦労をしないからです。
  私こそ、名誉会長が世界のために若き日より展開された、すばらしい社会活動、その思想・哲学、長い展望に敬服しています。“仏教精神”に満ちて行動されている名誉会長ならびに創価学会の皆さまに最大の敬意を表します。そして、私どもの次の世代が、ともに今日、同席していますように、中日友好への信念、私どもの友情を世々代々に伝えていきたいと思います。
 池田 同感です。先生の尊きご生涯と信念は、必ず後世に伝えられていくことでしょう。それでは次は日本でまたお会いしましょう。秋にお待ちしております。

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