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日蓮大聖人・池田大作

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脱テレビ文化  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

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3  パスカルの有名な「人間は考える葦である」という言葉を引くまでもなく、人間の特質は“考える”ことにある。
 私は科学者ではないので、もとより詳しくは分からないが、たとえば大脳生理学の権威・時実利彦氏は、その著『人間であること』(岩波新書)の中で「人間らしさの特質は、大脳の新皮質が負っている学習、適応行動、未来に目標を設定し、価値を追求して行く創造的行為にある」(要旨)と述べている。
 そしてなかんずく、人間的特質の表徴というべき“考える”ということは「受けとめた情報に対して、反射的・紋切り型に反応する、いわゆる短絡反応的な精神活動ではない。設定した問題の解決、たてた目標の実現や達成のために、過去のいろいろな経験や現在えた知識をいろいろ組みあわせながら、新しい心の内容にまとめあげてゆく精神活動である。すなわち、思いをめぐらし(連想、想像、推理)、考え(思考、工夫)、そして決断する(判断)ということである」(同書)という。
 このような人間的な創造、思考、判断の精神活動を育てるのに、言語ないし活字文化は、きわめて重要な意味をもつものである。なぜなら、文字はその一つ一つが、音声ないし意味を表す記号である。目でこの記号をキャッチした頭脳は、それを、みずからの経験や知識と関連づけて、イメージをつくりあげる(連想、想像)。そして、この行間にある著者の意図するものを思考したり、実生活と現実社会への具体化を思索する(思考、工夫)。
 つまり、目とか頭脳とかいった器官が、活字文化を媒体として、まったく人間的な、創造的な、創造や思考といった機能を発揮する。
 人は、一見なんの変哲もない記号の組み合わせの変化によって、美しい風景を描きだしたり、目のさめるような美人と対面したり、泣いたり、笑ったりする。そうした行為をさせているのは、フルに活動している精神機能なのである。
 大脳は使えば使うほど鍛えられ、磨かれるといわれるが、読書――総じて言語文化は、この人間的なものの維持と訓練に、実に重要な意味をもっていることになる。
 特に、子供の教育にあたっては、想像力や発想能力、創造性を養うために、読書の習慣を身につけるようにしていくことが、大切となるのではないか。できれば、夕食時の子供向き番組は別としても、心掛けてテレビから離れさせ、読書に親しみをもたせたいものである。
 ただし、それは強制によってではなく、親自身が、読書に親しむという習慣を身につけることである。私はかねがね一日に二十分の読書を人に勧めてきた。一日に二十分なら十日で二百分であり、一年間たてば、たいへんな実力がつく。
 一日、三十分でも一時間でも、おのおのが生活のなかに読書するというリズムをもっては、いかがなものであろうか。まだ字の読めない子供の場合は、お父さんなり、お母さんが、アンデルセンとか、グリム、ケストナーといった作家の、薫り高い児童文学の作品を朗読して聞かせることも、書物へのあこがれと、その尊さを教えるために偉大な効果を生むにちがいない。
 いや、そればかりではない。それを通じて、親と子供との間に、深い生命の対話と交流が行われ、より以上の情愛が生まれていくことも必定であると思う。
 そして子供たちは、そうした優れた文章の連想から、自分自身の脳裏に思い描く風景や人物のほうが、ブラウン管から生まれた“提供される風景”や“人物”よりはるかに美しく、壮大であり、鮮烈であることを知るはずである。
4  現代人は視聴覚メディアに吸収され、読書を楽しむといった風潮は急速に減っている。しかし、本は読み方一つで、どんなにか豊富な人生を学ぶことができるかを知るべきである。
 私はテレビ文化そのものを、否定しているのでは毛頭ない。その相対として、活字文化が軽視されるのを悲しむのである。テレビの楽しさを享受しつつも、それに埋没してはいけない。一人一人が主体性をもち、逆にテレビ文化を支配していくとき、初めてテレビ文化を超えたと言いうるであろう。
 “家に本なきは、人に魂なきがごとし”と私も思うのである。

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