Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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母をおもう  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
3  考えてみると、わが子を殺す母の出現は、現代の衝撃たる事実を失いませんが、臍の緒の絆を瞬時でも忘却した哀しい母の所業です。子を殺すことは、とりもなおさず、みずからの母性を虐殺することです。母というものが臍の緒の存在を忘却した時、どんな狂気にかられて、母親失格となるかの証明とも思われます。そして、ふたたびこの絆がよみがえってきた時、母親の後悔はいかに激しいものか、これもまた想像を絶するところでありましょう。
 子供は成長期にあって、――ことに男の子にあっては、母と子のこの絆を重い枷と感じて、絆からの脱出を願う時期がないとはいえません。絆を強く意識すればするほど、脱出のあがきも激しいものですが、無駄な努力に終わるのが常のようです。人間が一人の人間である前に、一人の子供であったという事実を抹殺することは、とうてい不可能だからです。つまり、臍の緒の心象は、母と子の間に終生つきまとって離れないのが、この世の真実でありましょう。
 私の母の子に対する深い愛は、どの子に対しても公平さを保っていました。つまり、偏愛と依怙贔屓はまったくなく、大勢の子供たちを捌いていくのが、実に鮮やかでした。
 食物の分配はもちろんのこと、喧嘩の仲裁にしろ、家事を言いつけるにしろ、それは細かな配慮がありました。そのころ――家では、鶏を飼っていて、卵を一日に一個ずつ産みました。子供は、この卵をもらうのが楽しみで、その日その日の順番が決まっていて、鶏小屋にそれを取りにいくのです。ひと回りするには幾日もかかります。末のほうの子供たちには、それがどんなに待ち遠しかったか。ところが、ある日、鶏小屋に四つの卵が産んでありました。その日は、四人の小さい子供が、一つずつ卵を手に入れたのです。――これは後で分かったことですが、小さい子供の順番のために、母が他所から買ってきて、そっと鶏小屋においておいたのでした。このように子らのささやかな願いを、敏感に知っていた母は、子供の心をいつまでも失わない大人でした。
 また、大きな西瓜をわいわい言いながら割ったことがありました。母は、元来、西瓜が嫌いなのです。子供の一人が叫びました。
 「お母さんは、西瓜が嫌いだから、その分は、ぼくにおくれよ」
 「いや、わたしは好きになったんだよ」
 この時、母はその子の申し出を許さず、これは私の分だよ、といって残った西瓜を、その場に居合わせなかった子供たちのために確保したのです。家に居ても居なくても、同じく公平に扱う母でした。子供は、母を信頼しきっていることができたのです。それだけにまた、子供は母の期待を裏切ることはとうていできないことでした。
 母は、世の常の母親のように、子供の出世や、栄達に関して言葉に出したことは、一度もありませんでした。終始一貫して厳しく言っていたことは、いつも同じでした。
 「嘘をついてはいけない。他人に迷惑をかけてはいけません」
 まことに平凡きわまる言葉であり、これ以外に、説教じみたことは何も言いません。子供の将来についても、好きなことを思うようにやらせてくれました。母は平凡な庶民の母らしく、なんの干渉もしなかったが、前述の厳しい口癖は、今になってみると、社会人として世に立つには、それで十分であったことが分かります。嘘と迷惑のない社会は、それだけで健康で、立派な社会でありましょう。今さら母の知恵を、私は感ずるのです。
 あまり愚痴をこぼさなかった母は、一面きわめて楽天的なところがありました。
4  戦争が深みにはまるにつれて、やがてわが家も、強制疎開になりました。両親とも代々の江戸っ子なので田舎というものが一軒もありません。それで、親類の馬込(東京都大田区)に家を建て増しして疎開しました。ところが、疎開してまもなく、馬込にも焼夷弾が降り、猛烈な火炎に全焼してしまいました。茫然自失です。辛うじて持ち出した荷物はただ一つ、古めかしい大きな箱だけでした。翌朝、騒ぎがおさまって開けてみて、みんな驚きました。雛人形ばかり入っている大箱ではありませんか。生活の必需品をことごとく灰としてしまった今、一人の子供は呟きました。
 「こんなもの、大騒ぎして出すんではなかった」
 「よかった。よかった。このお雛さまを早く飾れる家が見つかるといいね。きっと見つかりますよ、ね」
 茫然としていた一同に向かって、こう言いきったのは母でした。なんという楽天家かと思いましたが、果たして私たちは前途に明るい春をもちました。緊迫した明日をもしれない情勢のなかで、母の楽天的性格は、一家にとって一本の筋金として通っておりました。苦労を苦労とも思わず乗り越えてきた母の知恵は、一家を背負っているという自覚と、現実との闘いから生まれたものにちがいありません。
 戦災には、楽天的であった母も、四人の子供が次々と出征し、軍国の母となった時には、口には一言も言わなかったものの、心中どんなに辛い思いをしていたかが、子の私にはよく分かります。やっと手塩にかけて育てて、少しは一家のためにもなろうとした年ごろの四人の息子です。母の胸には、悲嘆の雨が降っていたにちがいありません。それを口にしないだけに、このころからめっきり老けはじめたことが、ありありと分かりました。私も、そのころ十五、六歳になっていましたので、兄たちの分も自分が働いてつぐなおうと心に決めました。
 兄たち四人は、みな外地に征き、戦後になっても、生死不明でありました。そのうちに長兄のビルマでの戦死の報せがきました。その時の母の悲嘆にくれた顔を、私は今でもよく憶えています。おそらく母の生涯で、最も哀しい出来事であったにちがいありません。母の姿から、私はこの時、戦争というものの悲惨と残酷さを身にしみて知ったのでした。そして、世の中の善良な、なんの罪もない母親を、これほどまでに哀しめ苦しめる戦争というものは、絶対に許すべからざる悪であり、悪魔の仕業であると考えずにはおられませんでした。以来、私は、戦争には絶対反対です。これも母から無言のうちに得た信条であって、いかなる理由があったとしても、私は戦争を憎み、反対することを生涯の仕事の一つと思っています。
 このほか、母の姿から、私は知らずしらずのうちに数多くの教訓を得ました。この教訓こそ、母と子の倫理学から生まれ育ったところのものです。
 母は一切の方法論を用いませんでしたが、みずからの深い愛情から滲みでた知恵から、すべてを包みこむ確たる倫理学をもっていたように思えてなりません。さもなければ、私が、母から無意識のうちに、これほどの影響をうけることもなかったでしょう。
 母は今も健在です。母の子に対するひたむきな純な愛情は、実に多くの実を結びました。今、多くの子供たちの感謝に包まれながら、昔と変わらない生活の姿勢を守って、母は稔り多い晩年を送っております。

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