Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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新しい家庭の考え方  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
3  たしかに、家庭は、もはや個人を絶対的にしばりつける鎖をもっていない。だが、私は、家庭というものを、そうした個人を束縛するものとみる考え方から脱却できないところに、誤りの本源があると思う。そのような人々にとっては、ともかく縛りつける鎖が取り払われたということしか目に映らない。あるいは、これまで縛られていると思いこんできた妄想を打ち破ることこそ、自分の戦いなのだという気にさえなる。
 結婚はしたものの、それによって自分が負わねばならぬ責任や、義務にまでは思いをいたさない。生まれた子供も、邪魔ものでしかない。それが夫たちの蒸発や、夫婦の性格不一致からくる離婚となり、若い母親が自分の生んだ子を捨てるといった、考えられないような事件となる。古い家族制度はなくなっても、家族、家庭は現にあり、一人一人がその成員となっていることも変わりはない。ただ、新しい家庭は、あくまでも個人を基本とする結合体であり、伝統のなかからつくられた既製服でなく、自分たちでつくっていく手作りの服なのである。そのなかにおいて、個人は、外から侵されることのない権利をもつと同時に、その結合体を維持し、より豊かなものへ、楽しいものへと高めていくために責任ももたなければならない。責任ないし義務のない権利は、権利としても成り立たないものである。
 もとより、家庭というものは、権利と義務のみで結ばれたものではない。その根底には、愛情がなければならないことは当然であろう。家庭という社会は、愛情に始まり愛情に終わる、といっても過言ではない。しかし、愛情がすべてでもない。一切が、愛情で片づくわけではないともいえる。
 愛情によって結ばれた若い夫婦は、往々にして、愛情で、すべてを解決できると思いこみがちである。結婚へのゴールインまでは、それでもよい。だが、結婚したからには、それだけでは済まないことを知る必要がある。みずからの責任を全うしないで、愛情を楯に一方的に権利を押し通すのは、明らかに間違いであり、愛情の破綻を招くことになってしまう。
 権利に対して、交換価値をもつのは、義務であって、愛情はまったく別次元の概念といえまいか。それを混同して、愛情があるなら無理をきいてもよいではないかというのは、商人に向かって、自分をお得意だと思うなら、タダで品物をくれというのと同じになってしまう。商人にとっては、きちんと金を払って買ってくれるからお得意なのであり、大事にしようという気にもなるのであって、タダで品物を持っていく客は、泥棒である。
4  夫婦というものも、本来は、赤の他人だったのであり、その愛情は、相互の権利、義務の正しい行使があってこそ、保たれより深められていくのである。
 近ごろの、離婚問題の大半を占めている性格の不一致も、結局は、相互の愛情の次元の問題というより、この権利と義務の次元の問題ではないだろうか。
 夫も妻も、互いの人格の触れ合いのなかに、たゆまず向上を心がけ、相互の理解を深めていくところに、新しい家庭を支える基礎条件がある。個人が中心である以上、個々の人格の向上が、家庭の向上の基盤となるのは道理であろう。

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