Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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いわゆる“運命”について  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
3  中世末から近世初めのヨーロッパで、人々は、狂熱にかられたように、魔女狩りを行った。当時の人々がいかに真剣に魔女の存在を考え、その殲滅に必死となっていたか。――それは、文字通り、暗黒の時代を現出したといえる。ルネサンスの中核となった当代一流の知識人たちも、魔女の存在には、微塵も疑いをはさまなかった。したがって、魔女とみなされた人々に加えられた残虐な迫害にも、ほとんどの人はいささかの良心の呵責も感じなかったのである。
 あるいは、近くは、戦前と戦後の日本人の生き方を振り返ってみても、その違いは、まことに明瞭であろう。かつては、軍神と讃えられ英雄とされた人々が、ひとたび戦いが終わってみれば、その銅像は倒され、教科書からもその名が抹殺されてしまった。
 このような変化をもたらすものは何か。――たとえば、中世ヨーロッパの世界で、善とされたのは、神と悪魔の相克を絶対とする、キリスト教的ドグマのもとにおいてであった。それが崩れ去り、現に生きている人間存在を基準においたとき、かつての善行は、恐るべき悪行として反省されるようになったのである。
 日本人の体験の例についても、かつての軍神や英雄は、国家主義が絶対化されていた時代の産物であった。ところがその国家主義が、より深い、人間主義に反するものであることが分かったとき、国家主義の“英雄”は、もはや真実の英雄ではなくなった。このような人間存在、人間性を一切の判断の基準におく考え方は、おそらく、今後人間社会がつづくかぎり変わることはないだろう。ただ、その“人間”のとらえかたにおいて、現在の生だけの存在にすぎぬとするか、永遠的な存在とするかによって、また違った判断も出てくることは、十分に考えられよう。
 現在、人間としてなんら非難されることのない、正しい生き方をしていたとしても、その善因が、かならずしも善果を生まないのは、さらに、人間存在の底に流れ、一切を支配している“法”に適っていないからだと、考える以外になくなってくる。
 この生命の本源の法則性、宇宙の実在の法を、仏教では妙法と説いたのである。ゆえに、あらゆる不幸の運命を転換して、永劫の幸福をつかんでいけるとする思想が、ここから帰結する。
4  結局、運命とは、原因、結果の法の枠外にあるものではなく、より深い法のうえでの、原因、結果の現象のあらわれにほかならない。それを偶然と考え、運命と呼ぶのは、その“法”の実在を知らないからであると言ったら言いすぎであろうか。
 ちょうど、電気の存在とその法則性を知らない人にとっては、電気を応用した、さまざまの文明の利器は、魔術のような不可思議なものと映るにちがいない。それと同じで――現代人もまた、運命としてあらわれている、生命の法則を知らないから、これを偶然的なものと考えるのであって、根本的な生命の法を知ったとすれば、ごく当たり前のこととして理解できるようになるはずではなかろうか。
 そのときこそ、人間としての幸福と平和への努力は、ことごとく蘇生し、実を結ぶことができるような気がしてならない。
 まさに、シラーの言うように「汝の運命の星は汝の胸中にある」のであろう。

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