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日蓮大聖人・池田大作

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若い母親に語る  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

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5  次に、若い母親が戸惑うのは、子供のしつけの問題ではなかろうか。
 十八世紀のイギリスの哲学者ヒュームは「習慣はかくて人間生活の大きな指針である」(『人間悟性の研究』福鎌達夫訳、彰考書院)と、その重要性を強調している。私は、なにも習慣がすべてであるとは思わないが、その人の個性を、人生を、社会の上に、存分に発揮していくためにも、基本的な、正しい習慣を身につけることは、きわめて重要であるといいたい。
 西欧の諺に「悪しき習慣は心の錆なり」というのがある。悪い習慣は知らずしらずのうちに、心の錆となり、社会のリズムに呼応できず、その人間を歪めてしまうものだ。
 特に、幼児期においては、見聞きするあらゆるものを吸収し、それを習慣として身につけていく。十九世紀ドイツの教育者で、幼稚園を初めて設け、不朽の名著『人間の教育』を書いたフレーベルは「人間の将来の全活動が、児童期には芽生えとしてみられる」(岩崎次男訳、明治図書)と言っている。
 この時期に、正しい習慣を身につけるよう、適切に教育し、導いていくことは、まことに大切なことといえまいか。善きにつけ、悪しきにつけ、幼少のころに身についた習慣は、なかなか直せるものではない。悪い習慣は、生涯、本人を苦しめ、正しい習慣は、なにものにも代えがたい財宝として、生涯、その人を助けていくことであろう。だからといって、私は何も難しいしつけをせよ、というのでは決してない。平凡な、ごく普通のことを、きちんと守らせるようにしてあげることが大事だというのである。
 できるだけ自分のことは自分でする習慣、人に迷惑をかけず、人と協調していく習慣、正しいことは進んで行っていく習慣等は、決して幼少のころだからといって無視していいわけはない。むろん、ヒステリックになる必要もなければ、愚痴めいた小言を言う必要もない。朝起きて顔を洗うこと、歯を磨くこと、外から帰ったら手を洗うこと、散らかしたものは元通りにしまうこと、それを折にふれて、自然のうちに教えておけば、それでよいのではなかろうか。
 時には、強く叱責しなければならぬ場合もある。それは、子供の生命にかかわることであったり、あるいは子供の将来にとって、どうしても強く言っておかねばならぬ時である。根底的には、子供を信頼したうえでの叱責であり、心からの愛情の発露といえよう。あとは、子供は自由奔放に、させてあげたらよいと思う。子供の世界は、ある意味では想像の世界である。夢は、宇宙を駿馬のごとく、駆けめぐり、見るもの、聞くもの、すべて驚きであり、新たなる想像を喚びおこす。この想像力、創造性は、人生にとって、かけがえのない至宝であり、私たちは、どこまでも温かく、はぐくんであげたい。
 子供はまた、知識欲が旺盛である。お母さんは、子供から「これなあに!」「どうしてなの」と矢つぎばやの質問責めにであう。ところが、母親は、とかくめんどうになって、ろくろく答えもしなかったり、時には「うるさいね、この子は」などと、言ってしまうことがよくある。これほど子供の心を傷つけるものはないのだ。純粋な成長の芽をも、みずからつみとっていってはならないし、その質問を大事な踏み台として、教育の道は大きく開かれていくことを知っていただきたいと思う。
6  以上、簡単に、若い母親の教育に対する心構えの一断面を申し上げたが、しょせん、教育は子供の人格を尊重するなかにあるということである。エマーソンが「教育の秘訣は生徒を尊重することにある」(市村尚久訳、明治図書『世界教育学選集57』所収)と述べているが、けだし名言である。
 最後に、どうか、若いお母さん方は、お子さんを、心身ともに健康な、溌剌たる人に育てていただきたい。せせこましい、小さな、神経質な人間をつくるのではなく、活きいきとした、自由闊達な、強い人間に育てていただきたいと念願してやまない。それにしても、現代の子供の教育は、母親自身みずからの人間成長に一切の鍵があるのではないだろうか。

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