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日蓮大聖人・池田大作

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母の慈愛  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
3  母親の愛情ほど強いものはない。この母としての愛情のなかにこそ、女性の強さは永遠に生きていくものといえまいか。それが女としての強さは別として、母親の責務を果たせなくなったのでは、真実の女性らしさの喪失と言われてもやむをえない。
 あの封建時代に、家長絶対主義の男尊女卑のなかにあっても、じっと耐え抜いた強さは、母なればこそであった。姑 や小姑にいじめられ、あきらめる以外に生きる方法のないときでも、母親の忍耐強さは、子供を思う愛情によって支えられていたことだろう。子供のために生き抜く、それは母親としての強い信念となっていたからである。
 明治時代の母として象徴されるものは、前時代からの武家の家柄を重んずる厳しいしつけであり、ある場合には、商家にあって一家を切り盛りする経済観念であったかもしれぬ。だが、それらの底流には単なる気丈なだけでない、母という力があったことは疑う余地はない。
 大正デモクラシーの新しい自由の波は、堅い桎梏から女性を解放し、近代女性の夜明けをもたらしたが、その新しさの混交するなかにも、古い伝統と風習はそのまま継承され、儒教的倫理が基調になって、変わらぬ流れをつくっていた。
 戦後はどうであろうか。その家族制度も儒教倫理もすべて崩壊し去った。そしてそれに代わるべき何ものもない。ゆえに本来の、母親としての愛情すらも、大きく揺らいでしまったのであろうか。
 私は大家族主義を決して讃美しない。近代社会への脱皮は、個人の自我をめざめさせ、独立した人間存在を明らかにしてきた。これこそ時代の大いなる必然性として、とうぜん理解すべきことであろう。そして生活の単位も家族から個人へと移り変わってきたことも必然である。夫婦だけの新所帯が急増し、新しい家庭環境づくりに、人々は新しい理念と、方途を見いださなければならぬ時代に、いつか入っているのだといえよう。
4  実に、生活における伝統という基盤から家庭を考えるとき、なんらかのかたちの承継として、もう少し生かすことに、意を使うべきではないかと思う。親からの遺産は、何も財産ばかりとはかぎらない。優れた生活文化もまた、その民族にとって、大きな遺産であるべきだ。よって多くの経験と年月を経て、生き残った習慣のなかには、生活として多くの美点を含んでいる。新しい文化はつねに、伝統の上に築かれていくからである。
 姑が嫁に教える野菜の煮つけ方や、漬けものの作り方に、かつては、その家庭独特の経済的な栄養学があり、ほのぼのとした家庭の雰囲気がつちかわれてきた。明治の母親たちのにおいは、そのぬかみそくさい手の中にあったともいえよう。節約は主婦の手数で補われ、それが土のにおいのする温かい家庭環境であったのである。
 ところが、最近は、たくあんから総菜にいたるまで、出来合いのビニール袋入りである。いかにも合理的であり、近代化された家庭生活とはいえても、何をもって家庭生活の環境づくりとし、母親としての愛情の表現としようとするのか。大いに考えねばならぬ点もあると思われる。
 このような母親の喪失がそのまま人間性の喪失に通ずるものであることを憂えるのは、私一人ではあるまい。

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