Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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“人生に負けてはいけない”  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
3  先生はその時、仁丹をかみながら、煙草をふかしていたと記憶する。私は、そのころいだいていた、人生上の、また社会上のいくつかの疑問を自然に質問せざるをえなくなっていた。――正しい人生とはどういう人生を言うのですか。真の愛国者とは? 天皇制について? 仏法の神髄とは?
 先生の回答は、はなはだ直截で、淀むところがなかった。苦もなく答えているように思われたが、それは正しく頭脳の回転の速さを示していた。衒いもなく、嘘もなく、確乎としたものの本体を語っているようであった。私は充分に満足し、真理がこれほど身近にあることに、生まれて初めて感動したことをおぼえている。
 この夜から、十日後の八月二十四日、私は日蓮正宗に入信し、創価学会員となった。次第に仏法哲理の正当さも分かり、戸田城聖という稀有の人格を知ったものの、なお心に躊躇しつつ、昼間はある企業団体に勤め、夜は学生として学校に通っていた。一年を過ぎたころ、先生の経営する出版社へ勤務することが、自然の成り行きのように決定した。
 二十四年正月から、恩師の下で働くことになったのである。仕事は厳しく忙しかった。敗戦後の日本経済は、難破船のごとくインフレ波涛のなかで喘いでいた。中小企業の一つである恩師の事業も、この不況の波をかぶらざるをえなくなってしまった。二十四年暮れから二十六年の春まで、連日のように悪戦苦闘がつづいたのである。
 多くの社員は一人去り、二人去り、いつか債権者と渡り合うのは、私一人になってしまった。私の健康も生活の不如意も危殆に瀕していたが、先生のもとを去ることはなかった。むしろ、地獄の底までも、お供しようという決心が、いつかついていたのである。恩師を信じ、大聖人の仏法の正しさを信じ、ギリギリの限界で孤軍奮闘をつづけたものであった。
 「ぼくは事業にやぶれたが、人生に、仏法にはやぶれない」
 恩師は、御自分の使命だけを自覚されていたのであろう。それが私には痛切に感じられたのだ。一切は、ここから再建の途に向かったのである。
 恩師の事業再建と、学会の再建のため、学業を抛棄せざるをえなくなった、一人の弟子の私を憐れんで、先生は言った。
 「ぼくが全部教えてやるからな」
4  それから数年にわたって、先生のお宅や、朝早く会社で、個人教授が始まったのである。法律、政治、経済、物理化学、天文学、漢文といった科目を、外国語を除いて、あらゆることを懇切に教えて下さった。先生は、御自分のなかにある、すべての学問を、私に移そうとさえしたのである。
 恩師の学問の道は、自ら研鑚されたものであった。北海道の小学校を卒業すると、札幌で丁稚奉公をしながら、小学校準教員の資格をとり、夕張の炭山の小学校で教員となり、さらに正教員の資格をとられている。十九歳で上京し、生涯の師・牧口常三郎先生に巡り会い、夜間中学に編入し、旧制中学四年修了の検定試験に合格し、後に中央大学に学んだ。
 このようにほとんど独学といってよい。恩師にとって、学校は資格をとるために必要であった。特に数学には造詣深く、時習学館という学習塾を盛大に経営し、また受験参考書として一世を風靡した、戦前のあの戸田城外著『推理式指導算術』は、当時百万部のベストセラーであった。今の年輩者には、この書を懐かしむ人も多いことと思われる。
 さまざまの学問の外に、最も精魂こめて教えられたのは、仏法の生命哲理であった。仏典や日蓮大聖人の御書をつぶさに解説しながら、現代思想との対比において教えられたのであった。学会再建における御自身の活動、日常生活の一切が、先生の命がけの教授であったと、私は今つきぬ思いに駆られるのである。
 私もまた、先生の厳しき薫陶に、懸命になって堪えた。そして一切をわが身に受けたつもりである。逝去寸前まで叱られどおしの不肖の弟子ではあったが――。
 今日、凡々たる私が、戸田先生亡きあと、創価学会を継ぎ、その使命とする広宣流布という空前の事業の中に生きられるのは、一瞬といえども、戸田城聖先生が私の脳裡から離れることがないためである。私の人生における最大の幸福は、戸田城聖という生涯の師に巡り会い、師弟の道を貫くことができたことである。

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