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日蓮大聖人・池田大作

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学生問題に思う  

「私はこう思う」「私の人生観」「私の提言」(池田大作全集第18巻)

前後
4  次に学生諸君自身について考えたい。冒頭に述べたように、私は、目的観と、心情においては、現代の学生諸君と、共通の側に立つものであるし、したがって、その気持ちは充分に理解しているつもりである。しかし、現在のような破壊的手段のみでは、理想はかえって遠のき、とうてい実現することはできないであろう。
 現実に、国民大衆の大多数が、学園での暴力主義に眉をひそめ、学外での過激な活動に憤りさえ感じている。それでは、革命的大衆を立ち上がらせるための起爆剤という目的が、しだいに失われていってしまうであろう。
 少なくとも、革命を呼号する以上、大衆を敵にまわしては、いかなる革命もありえないことを知らねばならない。しかも、すでに高度に発達した複雑な機構をもっているわが国社会では、安直な破壊は許されないし、また、できるものではないと思う。
 かつてロシアの社会や、フランスのアンシャン・レジーム(旧体制)は、単純社会のうえに、ひとにぎりの支配者が栄華を貪っているだけであった。しかし、高度に発達し、多元化した現代社会にあっては、既存秩序の安定のうえに、繁栄を楽しむ人々が、圧倒的多数を占めていまいか。――幾多の矛盾と不合理から、不満が社会全般を覆っているとはいえ、細かく事情をみると、それらは複雑に絡みあっている。
 単純な、暴力革命の図式は、現代社会にはとうていあてはまらないし、人間尊重の精神からいって、断じて暴力行為は許されるべきではない。むしろ、事情の異なった、雑多な不満が複雑に絡みあっている現代において、そこに一つの共通項、あるいは淵源ともいえるものを求めるとすれば、それはとりもなおさず、人間尊重、生命の尊厳を確立していくことに尽きるのではなかろうか――。
 これからの時代の革命は、この人間尊重の精神を基調とした高い理念と、思想による個々の人間の精神革命でなくてはならないと私は思っている。一人の人間を、心より納得させ、変革できないで、どうして社会全体を変えることができようか。暴力による破壊は、相手の理性に訴え、納得させる理念と、思想とをもたない、人間失格者の用いる手段といわれてもしかたあるまい。それが、私は残念でならないのだ。
5  時代は刻々と変わっていく。時代は急速に流転していくであろう。今の頑迷な指導者たちも、やがて皆、姿を消し、その同じ席に、今の学生諸君が着かねばならぬ時代が、かならずくる。今は、真剣に学び、力を養い、人格を磨いていくことが最も大切ではないだろうか。少々、忍耐をすることだ。そして、現代の青年らしい純粋さ、邪悪と不合理に対する怒り、正義への情熱、これを一生わすれることなく、自ら桧舞台に立ったときこそ、思う存分に力を発揮していただきたいのだ。
 それこそが、学生諸君の理想を実現し、新しい光輝に満ちた新社会を建設する最も間違いのない道であり、諸君の人生を、最も充実した人生たらしめる唯一の方途であると私は確信する。
 最後に、これまでのことに関連して、家庭における教育の重要性について一言しておきたい。今の話題の焦点は、大学問題にあるが、私はその淵源は、大学以前にあると思っている。すなわち、小学校から大学にいたる学校教育ももとよりだが、家庭における教育こそ、最も見直されねばならないであろう。
 戦後の母親は、教育のことは学校に、と任せきりにしてきたのではなかろうか。あるいは、家庭教師をつけて、進学の勉強をさせることが家庭教育だと、勘違いしてきたのではないだろうか。そして、自由に放任することが、子供の人格を尊重することであり、民主教育の本義だと見誤っていなかったろうか。
 今の学園紛争の、活動家学生たちの行動は、すねて暴れれば、どんな願いでも聞いてもらえると思っている甘えん坊の子供と変わりないといった人がいる。また、いわゆる“ノンポリ”といわれる無関心派のなかにも、自分さえよければ、世の中がどうなろうと構わぬという、エゴイズムの塊のような人がいるとみるのは、これは私一人の偏見だろうか――。
 人間形成にとって、もっとも大切な時期は、五歳ごろまでの幼児時代といわれる。この間の教育の主役こそ、他ならぬお母さん方自身なのだ。しかも、人間は、幾つになっても、どういう立場になっても、愛情をこめて育ててくれた母親には、頭が上がらないものである。
 戦時中、弾丸の雨のなかに身を投じていった兵士たちが、最期の瞬間に、瞼に浮かべたのは、やはり母親の顔だったという。
 私は、母親は、生涯、子供の人間完成へのよき教師であり、導き手であると思うし、すべてのお母さん方は、その自信を強くもっていただきたいと念願するものである。

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