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日蓮大聖人・池田大作

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早春の賦・祈りについて 池田大作  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

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6  一見、矛盾している言い方のようですが、正月の参拝客の数が年々増加すればするほど、逆に宗教心の回復が反比例して遠のいているのではないかと思います。祈るという一念が、何か特別のことになり、行事やレジャーのなかに組み込まれてしまい、日々の生活の心のなかから消えうせてしまったと言ってもいいのではないでしょうか。そのくせ、健闘を祈るとか、幸せをお祈りします、というように、祈るという言葉だけは、日常、干からび切った人間関係の潤滑油のように濫用されています。
 最近、日本語についての関心が高まっているようですが、当用漢字によって言葉が整理されてしまった時、その言葉がもっている精神も同時に社会から消えてしまった、という議論がありました。
 祈るという言葉は残っていますが、それがどのような意味なのかは、とうに掻消されてしまったかのようです。祈るという一念は、一面的には、より偉大なもの、絶対的なものを意識し、その実在に対して静かに自他を顧み、謙虚に内省し、一層の研鑽と人間的向上を決意することではないか、と考えます。
 祈りをもって絶対的な実在に帰命する姿勢のなかに、実は自身の本然の発揮があり、同時に、他者ヘの慈悲という生命の転換を可能ならしめる力が秘められているのではないでしょうか。それが、人間の最も主体的な行為である祈り、信仰というものの持つ意義であるように思います。
 私どもの運動は、そうした他人を思いやるとか、他人を慈しむという、いわばごく当たり前の人間の徳性を前面におし出し、開花させていく世界を築くことです。それはまず運動の内なるところにつくりあげ、内から外へとその波動の拡がりをはかっていく運動ともいえます。そのために私どもは祈るという行為を重視します。
 他人を思いやる心は、生命の複雑多様な働きの一要素にすぎません。生命は常に縁に触れ折に触れ、実にさまざまな様相をみせ、時に美しく、時に醜く映じます。
 祈りは、そうした生命の醜悪な、しかし人間だれもがもつ側面、働きを止揚しつつ、慈悲なり価値の創造を促すもう一つの側面、働きを常に脈うたせ、そのウエイトを拡げていく行為であるともいえましょう。
 つまり、口に他者の幸福を説き、心にそれを想う一念の究極に、祈るという必然的な行為があると思うのです。
 玄関のロビーに、たまたまさりげなく置かれていた春の野から、話は心の世界にまで広がってしまいましたが、ともかく私にとっての美しきものとの出会いをとおして、日頃の所感を申し述べてみました。
 井上さんが仰せのように、出会いには必ず別離があるものです。別れの余韻、さわやかさは、出会いがもたらされる事前の流れがひとつにとけあって、そこにいたるようにも思われるのです。
7  同じ福岡でのことになりますが、青年たちが集まっている小さな会合に出席しました。それは、御書学習会といいまして、月に一回「教学の日」をもうけ、その日、三々五々集まって、互いに仏法哲学の研鑽を行う会合です。
 訪れたのは、県下の二会場でしたが、いずれも五、六十人が参加していました。この日は全国各地でこのような会合をもっていましたが、この会場にも、全国のどこの会場にも見られるような光景がありました。
 学習の意欲に燃え、額に汗をにじませて駆けつけてくる青年、テキストを手にしながらも様々な職業の雰囲気、職場の空気をいまだ身につけているようで、二十年以上も前の自分の姿をそこに見る思いがしました。
 メンバーの、割に広いお宅を会場に提供してもらって、ともに仏法を学習し、研鑽しあうこうした会合は、学会草創の頃からの伝統を秘めた自主講座なのです。私は唯ひとつ、次のことを話しました。
 哲学を身につけることは、心に太陽をともすことであり、これからは哲学をもち、人生の暗路を切り拓きゆく人の時代である――と。
 哲学を求めて飛びたったミネルバのふくろうがいまだ帰りきたらず、人生の哲学が喪失した時代が余りに長く続いてしまいました。
 人生において哲学することが忘れられ、知識とその量だけが独走していることについて、恩師である戸田城聖先生は、「知識が即智慧であるという考え方は迷乱といえる。知識は智慧を誘導し、智慧を開く門にはなるが、決して知識自体が、智慧ではない」
 とよく語っておりました。
 日進月歩の勢いで増え続ける知識の総体に比べて、それを生かし、使うための人間の智慧が、どれほど進歩をとげているか、それは誰もが疑問に思っていることだと思います。
 では知識をしていかに智慧に転換させることができるか、その未知なる一点をめがけて、先人の様々なる苦闘があったことでしょう。仏法を研鑽する御書研究会などに出席して思うことは、庶民は庶民なりに、真剣にかつ自らの体験にあてはめながら、深く思索を重ねているということです。
 その研鑽が、いかにささやかなものであろうと、限りなく尊く、確かな未来性を感じさせるのでした。
 仄聞そくぶんしますところ、近く欧州へ旅立たれるとのこと、道中つつがなきことを心から祈念しております。来月、桜のつぼみがふくらむ頃、今度は私の方からお便りを差しあげます。
 一九七六年二月十九日

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