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日蓮大聖人・池田大作

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烈日の如き人生への想い 井上 靖  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
6  八月の初めに、墓参のため郷里伊豆に帰省いたしました。私の郷里は伊豆半島のまんなかにある天城山の北麓に位置し、現在は天城湯ヶ島町と呼ばれておりますが、私が幼時から小学校時代を過した頃の山村の面影をまだ大きくは失っておりません。家もまだそのまま残っております。私が幼時に祖母と一緒に暮した土蔵はとうに失くなっておりますが、母屋の方はまだ昔のままの姿を保っており、こんどの帰省では、この三階で久しぶりで故里の眠りを眠り、故里の眼覚めの一種独特の安穏な快さを味わいました。
 古里、故里、故郷、故園、故丘、故山、郷里、郷邑、郷関、郷井、郷陌、郷閭――ふるさとという文字はたくさんありますが、私はどれも好きです。学生時代には、休暇の度に帰省しましたが、今思うと、その折のふるさとは故園といった感じのように思われます。社会人になってから三回、郷里の村から応召していますが、その折村人に送られて出て行ったふるさとは、郷関がびったりしていたように思われます。そういう言い方をしますと、こんど帰省したふるさとは、一番いい呼び方を探しますと、上記のいずれのふるさとでもなくて、″ちちははの国″ではないかと思いました。十七年前に父は亡くなり、一昨年母も亡くなっています。今の私にとっては、ふるさとは先ず何より父と母とが眠っている国であります。″ちちははの国″ということになります。
 そのちちははの国の、半ば傾きかかった古いわが家の三階で、池田さんの詩集『青年の譜』を読み、そこに収められてある「母」に心打たれました。母が持つ愛の無限の深さ、強さ、広さ、美しさを称えて、その汚れなき広大な愛を、この人間社会関係の基調に置くことができたらと、高い調子で謳っておられます。
 母というものは、本当に有難いものだと思います。母が亡くなって、丁度一年半になりますが、ごく平凡なこの思いが、郷里の家におりますと、自然に心に湧き起って参ります。作家の豊田穣氏がある作品の中で、母親が亡くなった場面を描き、父親をしてその子供たちに言わせています。
 ――お前たちの悲しみを自分の悲しみとし、お前たちの悦びを自分の悦びとするただ一人の人は今は地上から姿を消してしまった。
 正確に記憶しておりませんが、このような言葉ではなかったかと思います。その時、それを読んで打たれました。
 池田さんは母の愛の広さ、深さを、海よりも広く、海よりも深いと謳われておられます。詩人の三好達治も、「郷愁」という詩の中に、次の一句を入れております。
 ――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。
7  これもまた、私にとっては忘れることのできない詩句であります。日本の″海″という文字には確かに″母″が入っており、フランス語の母(mere)には海(mer)が入っております。
 私自身はまだ母の詩を書いておりません。書くとすると、私の場合も、やはり海を引合に出さなければならないかと思います。そして、その場合は私も亦、私自身の母親ではなく、地球上のあらゆる母親が持っている″母″というものを書かなければならぬと思います。
 ちょっとお話が横道にそれますが、最近一番強くショックを受けましたのは、M新聞社の記者から『人間とは何か? 明日はあるか』という写真展覧会の写真集を見せられたことであります。八十六カ国、百七十人の写真家によって撮された写真の展観が、諸外国に続いて、近く日本でも開かれることになっていて、それに関する感想を求められたわけですが、その写真集を見て暗然たる思いに突き落されました。幸福と不幸が、文明と野蛮が、平和と戦乱が、それぞれ隣り合って同居し、地球上を覆っている事実を、眼の前に突きつけられた思いでありました。
 この写真展は、現代に生きるわれわれへの、おそらくちょっと較べるものがないほどの強烈な″明日はあるか″という問いかけではないかと思いました。私は写真集を見ただけですが、展覧会が開かれ、その会場に足を踏み入れたら、紛れもない地球上の現実を、もっとなまなましい形で見ることであろうと思います。いずれにしましても、地球上のこの現実を踏まえて出発しない限り、地球上に楽園というものはもたらせられない、そんな思いを持ちました。
 写真集には、言うまでもなく、たくさんの母親たちがうつされております。そして母親のおなかから出て、生い育った人間たちが、明暗いろいろな舞台に主役として登場しております。このようなことは判り切っていることですが、何十枚かの写真によって示されてみると、改めてこれが地球上の今日の姿であり、地球上の国々はすべて人間によって造られてあり、人間というものは例外なく親と子の関係から出発している、こんな一切をもとに戻したような思いを持たせられます。
 こうした地球上の現実に対して、烈しく抗議する資格のあるのは、おそらく母というものであり、それ以外にはないのではないか、このような思いを持つのは、私一人ではないだろうと思います。すべてを解きほぐし、もとの形にし、何もかも振り出しに戻して、そこから出発し直さなければならない、そんな衝動を強く感じるからであります。
8  思わずお話が横にそれましたが、詩集の中で「母」以外に「主題」というお作にも、いろいろ考えさせられました。
 小説や美術に主題があるように、人生にも主題がある、人生とは――、刹那と未来という白紙に坐して、自分の自画像を作り上げる労働である、と書いておられます。本当に人生というものは、そういうものであろうと思います。人生にも主題があるに違いありません。そしてその主題を完結させるために人の一生はあるのでありましょうし、言いかえれば、人生というものは、己が自画像を未来という白紙に描く盛んな営みに他ならないでありましょう。
 「主題」を拝見し、自分の人生の主題は何であろうかと思いました。それからまた、私の場合はまだ自分の自画像を描き上げていず、それを描き上げる途上にいることを思い、少からず勇気を覚えました。
 このほか「天才」について、「富士」について、それからまた他のご著書で、レオナルドの「モナ・リザ」にお触れになっておられますが、その「モナ・リザ」観について、何か申し上げてみたいと思っていましたが、長くなりますので他の機会にさせて頂きたいと思います。
 一九七五年八月十三日

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