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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 歴史との対話 『三国志』の世界2

「吉川英治 人と世界」土井健司(池田大作全集第16巻)

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7  「娑婆即寂光」の法理
 ――『三国志』に戻りますが、歴史の流転の方程式でしょうか、蜀もあえなく滅びています。そして、最後に残るのは孫権の呉になります。
 土井 孫権が父・孫堅、兄・孫策の跡をうけて第三代の位についたのは弱冠十九歳の時でした。
 若き孫権のまわりには、周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜、諸葛瑾、龐統(ほうとう)などの有能な臣下が集まり、孫権を支える。その盛況はあたかも「人材雲のごとし」であったとも言われています。
 王位を継いだ孫権は、懸命に兵を養い、民を愛し、広く賢人を集めて善政をしき、江東の地に一大勢力を築いていきます。そして、半世紀あまりの長きにわたって、呉の帝王として君臨しています。
 池田 孫権の数多い臣下のなかでも、主君を守り支える“赤誠”という点では、周瑜がその代表格でしょう。
 周瑜は孫権の兄・孫策と同じ年齢で、二人は無二の親友であった。しかし、孫策は敵の兵卒の不意討ちによる傷がもとで、二十七歳の若さで亡くなってしまう。
 年少の孫権が帝位に就いた時、周囲には、帝王とはいえ多少軽く見るきらいがあった。そうしたなかで、周瑜はまずみずからが率先して臣下の礼をつくし、若き孫権を懸命に守り立てています。
 この話は、ある意味では、中心者を支え補佐する立場にどういう人物がつくかが、重要であることを物語る話です。
 ――主従の関係も多くは利害を中心としていた時代に、二代の君主に一途に仕えきった周瑜の生涯は天晴れですね。
 池田 まあ、価値観が大きく異なる現代と、そのまま比較するのはどうかとも思いますが、たしかに、人間、ちょっとしたことがきっかけで“慢心”や“我”が顔を出す。
 私も三十二歳という若さで会長になり、さまざまな人間模様を見てきてよくわかります。
 だが、周瑜は人生の最期の瞬間まで、不変の心であった。
 土井 呉は荊州の帰属をめぐって、蜀と激しく争うが、彼は死の直前まで指揮をとり続ける。
 吉川『三国志』では、「諸君。不忠、周瑜はここに終ったが、呉侯を頼む。忠節を尽して……」(全集26)と部下に言い残して、息絶えてしまう。
 この周瑜の死を知らされた孫権は、「周瑜のような王佐の才を亡くして、この後何を力とたのもう」(全集26)と、深く嘆き悲しんだといいます。
 周瑜は孔明のライバルということもあって、どうしても人気の点では劣ります(笑い)。しかし、『三国志』のなかでも屈指の人物としてあげられますね。
 池田 また、孫権が、夷陵の戦いにおいて、いまだ一書生にすぎない陸遜を抜擢し、国家の危急存亡の事態に臨んだことなどにも見られるように、これはという人材に対して全幅の信頼をおき、その才能を存分にひき出していたことも見逃せないでしょう。
 人を活かし、力を結集していったという意味では、「総合力」の時代に生きる現代人がもっとも学ぶべき指導者であったかもしれない。
 土井 人の使い方という点については、曹操はあまりに厳しすぎ、劉備は情に流されてしまうきらいがあった。それに対し、孫権は兄・孫策の遺言を固く守り、じつに見事な“人事の采配”をふるっています。若いころからの苦労が生かされていますね。
 池田 ともあれ、悠久なる宇宙の中で、あまりにも小さな人間という存在と営み――『三国志』には、その果てなき流転の彼方に永遠なる光を見いだそうと生きぬいた群像がある。
 そこには、時代や社会が変化しても不変の人間のロマンがある。
 ――そう思います。しかし、ある意味で、戦いの途上での孔明の壮絶な死は、人間や国の運命のはかなさを象徴してあまりあるようにも思われます。
 池田 その点を、恩師も強調されていました。
 仏法は、この世界を「娑婆世界」と説きます。娑婆とは、「忍」「堪忍」「能忍」のことです。
 しかし、人々がいつまでも悲惨と苦悩に沈む世界であってはならない。また現実のはかなさのあまり、夢想のごときユートピアを描くのみでも、一種の自己陶酔であり、無慈悲である。
 苦悩と無常の現実にわが身はおかれている。しかも心は永遠なる楽土を求めてやまない。青年が人生に真剣であるほど、二つのはざまで揺れ、また板ばさみになっていく――。
 ですから、戦後、私がこの仏法に出合ってまもないころ、法華経の「娑婆即寂光」という法理を知り、たいへんな衝撃を受けたことを覚えています。観念ではなく、現実に平和と安穏へと社会の宿命を転換していける「大法」であるならば、一生をこの法戦にかけてみようと――。それから四十年たった今日も、その信念は、まったく変わっておりません。
8  三国時代の人物像
 ――三国時代には、変わりものの人物も出ています(笑い)。有名な阮籍もその一人です。
 阮籍は、歴史のうえでは知られているものの、小説には出てきませんが。
 池田 それはしかたがない。同時代の人を全部登場させたら、ストーリーが混乱して、収拾がつかなくなるでしょう。(笑い)
 土井 当時、俗世を離れて、山陽の竹林に集まっては、酒をくみかわし談論していた「竹林の七賢」と呼ばれる文化人がいたことは、よく知られています。阮籍は、その筆頭にあげられる人物です。
 池田 そうですね。日蓮大聖人は「立正安国論」に、思想の乱れは国の滅びる前兆であるとの実例としてあげられていますね。
 「阮藉げんせきが逸才なりしに蓬頭散帯ほうとうさんたいす後に公卿の子孫皆之に教いて奴苟どこう相辱しむる者を方に自然に達すと云い撙節兢持そんせつこうじする者を呼んで田舎と為す是を司馬氏の滅する相と為す」とあります。
 通解すると――阮籍(阮藉)は、若いうちから逸材として世に知られていたが、髪を乱し、着物もだらしなく着て、礼儀というものをまったく無視していた。
 そのため、当時の公卿の子弟たちがみな阮籍にならって礼儀を乱し、賎しい言葉でたがいに悪く言いあい、相手をはずかしめるのが自然だと言い、礼儀を重んずる慎み深いものを「あれは田舎者だ」と呼んだ。これは司馬氏の滅亡する相であった――。
 彼については、博学多才でもあり、人格識見ともに優れていたとの評もあります。
 また彼が礼儀を無視した背景には、魏王朝を乗っ取った司馬氏に対する無言の抵抗があったという見方もある。
 ただ、本当に新しい創造をもたらすものは何か――。また青少年の心に何を与えていけばよいか、ということも同時に考えねばならないでしょう。バクーニン流に言うならば“破壊のパッション”を、いかにして“創造のパッション”へと転じていくかという視点です。
 ――現代の風潮にも通じるような気がします。
 土井 「白眼視」という言葉がありますが、それは阮籍が母を亡くした時、弔問客に応対するのに白眼と青眼を使い分け、礼法主義者には白目をむいた(笑い)ことから由来しているようです。
 「晋書・阮籍伝」に「礼俗の士にまみえるに白眼を持ってこれに対す」(百衲本二十四史)とあります。
 ――それにしても、斜めに構えるというのは、周囲にいやな雰囲気をつくりますね。頭がよくても人から嫌われていることには気がつかない……。ほかに三国時代のころの人で、日蓮大聖人の御書に出てくる人物はいますか。
 池田 華佗、鄭玄など、医師や学者の名もあげられています。華佗については、正史の「魏志・華佗伝」(百衲本二十四史『三国史魏書』)にもその名医のほどが記されていますが、『三国志』の読者にとっては、周泰や関羽を治療したり、曹操によって獄へ投じられた人物としてよく知られているところです。
 土井 龐徳ほうとくとの戦いで矢傷を受けた関羽のところに、華佗が「かねがね景仰する天下の義士が、いま毒矢にあたってお悩みある由を承り」(全集27)と進んでやってくる。
 そして馬良を相手に碁を打っている関羽の臂の骨を、鋭利な刃ものでガリガリ削ったといいますが、ああいう時代に手術を施す医師がいたというのは驚異的なことだと思います。
 また関羽はその間も、傷のない右手で碁盤に石を打ち続けていた(笑い)――と言うのですから、すさまじい話ですね。
 池田 たとえば、御書(「太田入道殿御返事」)では、「就中なかんずく・法華誹謗の業病最第一なり、神農・黄帝・華佗・扁鵲も手を拱き持水・流水・耆婆・維摩も口を閉ず」とあります。この御文からも、華佗がたいへんな名医とされていたことがわかる。
 ただ、いわゆる病気は医師が治療する。しかし病める生命をどうするか。そこに仏法の眼目があります。
 もう一人の鄭玄は、前漢以来の経学を集大成した儒学の大学者です。劉備たちより三十以上も年上です。
 主君の圧迫を受けていた門下のために日蓮大聖人が代筆してくださった、「頼基陳状」という御書の一節には、「鄭玄曰く「君父不義有らんに臣子諫めざるは則ち亡国破家の道なり」」とあります。
 忠義に生きた鄭玄の言を引いて、大聖人は何が真実の忠誠であるか、先人の説いた道理をとおし諭されているのです。
9  光のあたらない「陰」に本物がいる
 土井 『三国志』には、ほかにも数えきれないほどの人生模様が登場しますが、鼎談『敦煌を語る』(角川書店)でふれられた人物で、敦煌太守(長官)として活躍した倉慈も、この「三国時代」の人でしたね。
 池田 読んでくださったのですか。(笑い)
 正史『三国志』の「魏志」(巻十六)に、彼のことが記されていますね。まことに簡潔な記述ですが、私には、忘れられない歴史の一コマです。
 華やかなスポットライトを浴びている“大事件”や“大物”を追っていくだけでは、歴史の奥深さはつかめない。
 光の当たらない「陰」にも、本物の人物がいるし、また人知れぬところで、歴史を動かすドラマが生まれている。私も、なるべくそうした人物を語りたいと思っています。
 ――ジャーナリズムを“その日その日主義”と訳した人がいましたが(笑い)、心しなければならない視点と思います。
 土井 群雄が並び立って中原に鹿を逐っている、まさにその同じ時に、中央の舞台から遠く離れた辺境の地で、壮大なる文化創出への礎を、黙々と築き上げていた人物がいたわけですね。
 池田 三国鼎立の大動乱の世にあって、当時、シルクロードの要衝、敦煌の地も、荒廃を極めていた。
 中央との連絡が絶え、二十年間にわたって、太守が不在という状態が続いたため、その地の豪族たちはやりたい放題で、横暴に振る舞っていた。
 彼らは、庶民のわずかばかりの田畑をも貪欲に取り上げてしまったので、庶民は「立錐の土無く」(キリを立てるほどの土地もない)という窮乏に泣かされていたといいます。
 土井 はい。さらに傲れる有力者たちは、西域の諸外国から交易のために訪れてくる人々に対しても、さまざまな妨害を加えたので、交流も進展しなかったようです。
 池田 そうしたなかに、太守として赴任した人も何人かはいたが、結局、現実と妥協してしまい、何ひとつ改革しようとはしなかった。
 いつの時代にも、現実の壁はあまりにも厚い。捨て身の覚悟がなければ、新しい事業はなし得ない。そこに登場したのが、この倉慈です。
 彼は、敦煌の地を、わが使命の天地と胸中深く定めていたのでしょう。敢然と庶民を守りぬく戦いを開始した。
 ――それは太和年中(二二七年―二三二年)といいますから、ちょうど孔明が五丈原の決戦に挑もうとしていたころのことでしょう。歴史には、こうした“静かな戦い”があることを忘れてはいけませんね。
 池田 倉慈は非道な豪族らに対し、一歩も退かなかった。そして、ジリッ、ジリッと、本来の公平な土地の分配にまでもっていく。庶民の喜びは大きかったし、やがて敦煌の地に、民衆文化が花開く土壌ができあがっていった。
 土井 また彼は、異国からの旅人も最大に守り、大切にしていますね。こうして、貴重な国際交流への道も大きく開かれたわけです。
 池田 さらに倉慈は、山積みの裁判沙汰の問題も、みずからの陣頭指揮で一つ一つ解決にあたっている。
 それは、民衆を抱きかかえながらの戦いであった。その激しい辛労と疲れもあったのでしょう。彼は在職中に急死する。
 土井 ええ。庶民も異国の人々もこぞって、その突然の死をいたみ、彼の遺徳を偲んだといいます。
 いずれにしても、敦煌を舞台にした倉慈の活躍は、わずか数年間のことにすぎません。しかし、残したものは、じつに大きかったですね。
 池田 惰性の漫然とした二十年間よりも、たとえ一年間であっても、純粋な情熱を燃焼させた仕事は残る――。
 倉慈も、魂魄を永遠に留めんとするがごとき、気迫の一日一日を積み重ねたにちがいない。彼の死後、敦煌の太守に任じられた人々は、真剣に、倉慈のあとに続こうと努力したと言われる。
 彼の尊き「一念」と人生の「軌跡」は、後継の指導者たちの「模範」となり、「原点」となった。
 土井 敦煌の穀物生産を五倍にも飛躍させた潅漑事業も、倉慈に続く一人の指導者によってなされました。
 しかし、史書の『魏略』には、その潅漑の功労の指導者でさえ、倉慈の人徳には及ばなかったとあります。
 池田 あの絢爛たる文化の遺産、敦煌の莫高窟が築かれ始めたのは、倉慈の苦闘より、およそ一世紀ほど後のことです。
 “大きく(敦)輝く(煌)”――敦煌の悠久の歴史とともに、その名は長く語り継がれていくでしょう。
 華やかなものは、長続きはしない。しかし、地味であっても、庶民の真っただ中で戦いぬいた人生には、実像の生命の輝きがある。
 みずからの使命の舞台に生ききった倉慈の人生――なにげない歴史の記述の奥にも、美しい心の響きがあり、ドラマが秘められています。

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