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日蓮大聖人・池田大作

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「第二の枢軸時代」の要件  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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8  アイトマートフ 同感です。最後に新しい全人類的宗教について一言したいと思います。そういうものが考えうると仮定しての話です。世界宗教については宗教会議でヴィヴェーカーナンダが語っていました。彼はそれをどのようなものとして考えたのでしょうか? それは、人類が苦しみぬいてつかんだ精神的なものをすべて取り込んでいる宗教となるでしょう。
 各人がみずからの個性を培い、自己開示を通じて、全人格をもって統一へと向かうのです。彼はその考えを次のような言葉で明らかにしています。「すべての民族は、個々の人間と同じように、その生活の中に、その生存の中心となるような唯一のテーマ(主題)を、ハーモニーの他のすべての音をまとめあげる基調音をもっています。……もしも民族がそれを投げ捨ててしまうならば、もしも民族が自分自身の生きる原則を、代々伝えられてきた進路を捨ててしまうならば、その民族は死滅してしまいます」
 ヴィヴェーカーナンダは各人のもつ素晴らしさを信じて、人々や諸民族の友好を呼びかけました。彼はアメリカ人に対して、どの宗教の旗にもやがて「闘いではなくて相互援助。破壊ではなくて相互理解。実りなき論争ではなくて調和と平和」と書かれるであろう、と言いました。
 彼の信念に力を与えているのは人間に対する信頼です。彼の師のラーマクリシュナの言葉があります。「あなたは神を求めていらっしゃるのか? それならば、それを人間の中に求めなさい。神的なものは他の何にも増して人間の中により多く現れます」(『ラーマクリシュナの福音書』)
 人間には何と多くのものが与えられていることでしょう。人間の個性の容量は何と大きいことでしょう。しかし、そこでは偉大な可能性が何とわずかしか実現されていないことでしょう。人間は自由へ飛びつこうとして、自分の内面的な制約にぶつかりますが、その制約は外的世界の歪みを正確に反映しているものです。
 内面的な自由があって初めて外的な自由が可能です。しかし、内面的自由は発達した意識と道徳感覚を前提としています。人間であれ、民族であれ、あるいはその民族の言語であれ、何でもいいのですが、それらは完全に到達する過程で、力を蓄えた草花が突然花ひらくように、みずからの可能性を開いて見せます。個性と開かれた心こそが、意思の疎通と、全人類的連帯と、高度の統一の条件です。
 以上の個人の原則はすべての関係を正常化します。それは、一個の全体としての人間が事物の尺度となるからです。個人は「良心の器官」であって、民族の部分ではありません。「民族性は個人の部分であって、個人の中に、その質的内容の一つとして存在する。民族性は個人を育む環境である。しかし、民族主義は偶像崇拝と奴隷制度の一つの形態である……」とも言っています。
 その二つは近い感情のように見えますが、内容においては相反するものです。片方は自由と救済へと導き、他方は隷属と奴隷制度へと道を開きます。それゆえに党官僚の個性のなさ、民族的その他の特徴の欠如は驚きです。すべての人間が、初めから活動計画に組み込まれている単一の行政的論理に従って、同一の行動をとるのです。
 個性的なものが神的なものであるならば、非個性的なものは、つまり、例の「団結」や同一性は、まさに「世界悪」であり、あるいは、私たちの命を奪いかねなかった悪魔の誘惑でした。人間の中に主体を見ず、人間を客体として、人的資源の一粒としてしか見ないような考え方が、百万単位で数えねばならないような犠牲をもたらしたのです。闇の世界ではすべてがあべこべで、嘘が真実と呼ばれ、同一性が統一と呼ばれます。しかし、人間や民族から自由の可能性そのものを奪っているものを、どうして統一と呼びうるでしょうか?
 いうまでもなく、このテーマは非常に現実的なものです。新しい夢は、あるいは未来の世界は、どのような観点に立とうと、その特徴は、自由な人間の誕生と、西洋と東洋との幾世紀にもわたる文化を知ることを通じての、自己認識と自己実現を通じての、自己完成の個性的な道を探求することです。
 ヴィヴェーカーナンダ
 一八六二年―一九〇二年。インドの宗教哲学者、近代宗教改革者。
 ラーマクリシュナ
 一八三六年―八六年。インドの宗教家、哲学者。
9  池田 あなたがラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダに仮託しておっしゃっていることは、私の強調してやまない「内在的普遍」という指標へと通じてくるものです。「神的なものは他の何にも増して人間の中により多く現れる」――ラーマクリシュナの言葉は、この「内面へのはるかな旅」の掉尾を飾るにふさわしいものです。
 マハトマ・ガンジーも、同じように、言っております。「神を捜し求めるのに、巡礼に出かけたり、燈明をあげたり、香を焚いたり、神像に油を塗ったり、あるいは、朱を印したりする必要はない。神はわれわれの胸の内にましますからである」(前掲『《ガンジー語録》抵抗するな・屈服するな』)と。
 さて、私たちは何度もお会いし、また書簡を交わしながら、そのつど友情を確認し合ってきました。覚えておられるでしょうか。一昨年(一九九〇年)の七月、モスクワのオクチャブリスカヤ・ホテルでの出会い――そうです。ゴルバチョフ大統領(当時)との会見の三日後のことでした。あなたの友人のキルギス共和国のドゥイシェーエフ副首相も、駆けつけて祝福してくれました。その時、私はおおよそ次のような趣旨のことを申し上げました。
 私は、仏法者ですが、仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒といった形式を信ずるのではなく、むしろ人間の友情を信じます。これは、四十年余りの私の信仰体験の結論なのです、と。
 友情とは、人格と人格との深き結びつきです。私は、今年(一九九二年)二月、十三年ぶりにインドを訪問し、当地の多くの方々と友情を結び、確認し合ってきました。私にとっても、インドの友人にとっても「宗教はわれわれの行為のすべてに浸透していなければならぬ。そうなってこそ、宗教は宗派心ではなくなり、宇宙の秩序ある道義的支配への信頼を意味するものとなる」(同前)とのガンジーの言葉――私が、当地でのガンジー記念講演で引用したものです――は、共有の財産でした。
 友情が、ガンジーの言う「宇宙の秩序ある道義的支配への信頼」を形成する重要な機軸であることは、申すまでもないでしょう。もし「宗派心」によって友情が損なわれるようなことがあったとすれば、本末転倒というしかなく、今後の世界宗教の在り方にはまったくふさわしくないでしょう。私は、オクチャブリスカヤ・ホテルでのあなたへのメッセージに、私のささやかな思いをこめておいたつもりです。
 最後に、私がキーワードとして提示しておいた「内在的普遍」、すなわち万人に内在する普遍的な価値について、簡単なアプローチをしておきたいと思います。
 私の知るかぎり、この「普遍性」「普遍的なるもの」に最も鋭い分析を加えている人は、フランスの哲学者ガブリエル・マルセルですが、彼は、「普遍性の座は、深さの次元にあるのであって、決して拡がりのなかにあるのではない」(前掲『人間―それ自らに背くもの―』)ということを、何度も力説しております。彼の出合った、あるエピソードというのがあります。それは、こうです。
10  ――真摯なキリスト教徒を自称する、フランスの有名な古生物学者が、しきりに、社会主義にのっとった全世界的な進歩への確信を開陳していたある時、マルセルがソビエトの労働キャンプ(強制収容所)で刻一刻、死に瀕している何百万の不幸な人々に注意を向けさせようとすると、彼は、こう叫んだというのです。
 「宏大無辺な人間の歴史において、数百万ぐらいの人間がなんなのだ!」(同前)と。
 マルセルは痛憤します。「まさしく冒涜の叫びでなくて何んだろう。人間の現実が幾百万であれ、幾億万であれ、彼にはもはや件数によってしか、すなわち数理的抽象によってしか考えられなかったのである。唯ひとりの人間が言うにいわれぬ忍びがたい苦悩にあえいでいる現実など、彼には数の迷夢によって文字通りマスクをかけられているのであった」(同前)と。
 この古生物学者が、知らずしらずのうちにおちいっている「数の迷夢」こそ、あなたが糾弾しておられる「非個性的なもの」であり、「団結による同一性」であり、「世界悪」にほかなりません。そして、私が「内在的普遍」に対して「超越的もしくは外在的普遍」と名づけているものが、まさにそれなのです。それは、あなたのいう「隷属と奴隷制度への道」であり、「普遍」とは似て非なるものであって、世界と人類にとって、災厄以外の何物でもありません。
 「普遍的なるもの」は「内在的」に探求されなければなりません。悩み苦しむ一人の人間の苦悩に無関心でいられるような荒廃した精神、生命感覚であったならば、どうして人類の進歩などを論ずることができましょう。
 日蓮大聖人の「一人を手本として一切衆生平等」とは、ほかでもなく、「普遍的なもの」への、そうした王道ともいうべき探求のアプローチを示しているのです。たとえ迂遠なように見えても、それを外して「普遍」にいたる道は絶対にありえないからこそ、王道なのです。
 「普遍」とは精神(エスプリ)なのである。――そして精神とは「愛(アムール)」である、として、マルセルは提唱します。
 「われわれはどうも、普 遍なるものを、一般性の最大量といったようなものと理解しがちなのである。しかし、それこそ、如何に力強く反対しても足りないほどの解釈なのである。ここで最善の道は、われわれの精神の支点を、天才的な人間の最高の表現に、――私は至上の性格をあらわしている芸術作品をいっているのだが――求めることである」(同前)と。
 我々が、ドストエフスキーやトルストイ、プーシキン、そしてあなたの作品をも含めて、ささやかながらつづけてきた対談も、こうした「普遍的なるもの」へのアプローチではなかったでしょうか。
 その意味では、「内面へのはるかな旅」は「普遍的なるものへのはるかな旅」と言い換えることもできます。その旅路がどこまできたのか、どこへ向かおうとしているのか――だれも知りません。しかし、この道程をともどもにたどる以外に、あなたのおっしゃる「自由と救済」への道はありえないと、私は確信しております。

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