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日蓮大聖人・池田大作

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生命のドラマ・法華経  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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6  池田 人々は苦悩を恐れています。どうしてでしょうか?
 アイトマートフ 多分、「私は生きたい、考え、苦しむために」という詩人の言葉にだれもが同意するわけでは決してないからでしょう。プーシキンのこの言葉の意味はどこにあるのでしょうか? 彼は真の人間および詩人として、まさにその生命の宇宙的ドラマを理解し、受け入れ、それをカオスとエントロピーとの戦いの中に見ています。
 カオスとエントロピーを克服するものは思想です。もっとも、それは苦しみぬいてつかめる思想です。すなわち、「二束三文」で手に入るものではなく、秘められた本源的な人間の本性の表現としての、全存在をかけて苦しみぬいて生まれるものです。そこに人間の使命の核心があります。
 私たちの多くは偉大なドラマとして生命を感じようとせず、それゆえに、自分を出口のない絶望へと追いやり、とどのつまりは生を拒否し、生を呪いさえすることになります。
 もう一つの取り組み方は、生きること、すなわち苦悩も喜びも自分の権利としてとらえていくような生き方です。そこから人生のドラマが生まれます。そのドラマのただ中にあって、人間は必然的に、何のために生きるか、どうしたらより多く人間たりうるか、という「永遠の問題」に到達します。
 あなたがこのことに関連して引用なさったドストエフスキーに戻れば、「より多く人間たること」は、想像力をよりいっそう発達させ、自分の人生観を広げ、「眼に見えないものの目撃者」になること、というよりは、そのような人間になることをめざすことです。
 そうすれば、人間は自分の心の眼を呼び覚まして、永遠の、普遍的生命を感じ取り、体験することができるようになると思います。しかし、それはだれにでもできるということではありません。
 エントロピー
 無秩序さや不規則さを表す量として、もと物理学で導入された。
7  池田 ゲーテが「信仰は不可視なものへの愛だ。不可視とみえ、あり得べからざるものと思われるものへの信頼だ」(前掲「ゲーテ格言集」)と言っております。そうした目に見えないもの、ありうべからざる世界へも縦横に想像力を働かし、そこにリアリティーを感じ取ることは、古来、人間の最大の要件であったと言っても過言ではないでしょう。この種の感性ほど、現代の衰弱した精神風土から縁遠くなってしまっているものもありません。
 にもかかわらず、人々はその不幸に気づかず、というよりも気づこうとせず、物質的繁栄にのみ浮かれ、末梢神経を刺激するようなものばかり追い求め、そこに幸福の実像があるかのように錯覚しております。
 D・H・ローレンスが「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受け入れたがらないのである」(『チャタレイ夫人の恋人』伊藤整訳、『新装世界の文学セレクション36 ロレンス』所収、中央公論社)と述べているように、悲劇を悲劇として感じられるのならば、まだ救いがあるでしょう。
 悲劇を悲劇と、不幸を不幸と感じられなくなったら、それこそ“病膏肓に入る”で、これほどの悲劇、不幸はありません。一日も早く、こうした転倒に気づく必要があります。
 たしかに、あなたのおっしゃるように、こうした時世であればあるほど、永遠・普遍なる生命の感得という課題を、万人が担いうるかについては疑問が生ずるかもしれません。しかし、事実問題としてはいろいろあるかもしれませんが、原則としては、その可能性は万人に開かれているはずです。また、そこに法華経の平等思想の卓越性が輝いているのです。
 しかし、そのことよりも私が心配しているのは、どうして私たちは自然界の威力を軽視しているのかという問題です。
 自然は自分自身を開いて見せようとしています。それは私たちより優れたものです。その証拠に、あなたの小説の主人公エジゲイはどうしてひとかどの人物なのでしょうか?
 彼は自然の猛威、自然界、宇宙を前にして、人間であることの意味を深く認識していて、それらの試練を義務として受け入れています。その結果、新たな人生を生き始め、彼の心は人々や生への愛に貫かれて、自然と溶け合い、非凡なものになります。彼は一見不可解な生に対する恐怖に打ち勝ち、大胆に過去へも未来へも入っていきます。
 日蓮大聖人は、善きことを行うことは、たとえ仏教を知らなくても仏教の精神を実践していることになるのだ、という趣旨のことを述べられていますが、彼(エジゲイ)の場合も、本能的に法華経の精神の一部を実践していると言ってもいいでしょう。彼にとって材料はいたるところにあります。その材料は永遠で美しい自然そのものです。問題はすべてその自然をどのように受け入れるかにあります。
 アイトマートフ 正直なところ、そういう見方は私にとって思いがけないもので、しかも非常に興味があります。あなたは平凡な人間であるエジゲイを詩人として見ていらっしゃる。
 池田 それは当然です。人間はだれしも無意識のうちに自分なりの世界のイメージを作っています。ましてや、詩人が愛情をこめて創造した主人公の場合はなおさらです。そうでしょう?
 アイトマートフ そうかもしれません。私たちは流行を追い、生活の豊かさを求めることによって、自分たちのこの地上での生活を縮めているように思います。どうでもいいような欲求を満たすために作られた「玩具」のようなものに満足して、喜びの創造者たることをやめてしまっているからです。想像力の危機はそこからきています。
 しかし、ここではどうすることもできません。飛行機で行けるのに、どうして馬車を使うでしょうか? 超高速自動車で疾走するよりも歩いていくほうがはるかにたくさんの素晴らしい物が見られるなどと言ってもむだです。
 とどのつまり人間は科学技術の進歩の犠牲になっているのであり、その進歩の付録になっているのだという論拠も説得力をもちません。どうしたらいいでしょう?
 もう一つ問題があります。現代人は永遠とまで言わずとも、長生きをしたいと思っているのでしょうか? 多くの人は短くてもいいから、いい暮らしがしたい、と答えるでしょう。人生は最も魅力的なショーだ、というアインシュタインの言葉に同意する人は少ないでしょう。
 池田 あなたがおっしゃったように、生の価値は異常に下がっています。人間が品物の奴隷になりさがり、人生はあれこれの品物の寿命によって測られるようになったからです。
 しかし、それにもかかわらず、人類はみずから求めた不自由さを経験した後で、人と人、心と心、魂と魂との交流の中で得られる真の喜びに到達するものと信じます。それは、奇跡を前にしての、生を前にしての、人々の一体化の欲求の中で得られます。そしてそれは法華経の中に具現されています。
 法華経は「活の法門」と言われています。法華経を根本として、あらゆる思想や哲学を活かしていくところに法華経の特色があります。“時の極み”“地の果て”を大きく超え、超えることによって、それらの生命のドラマを包み込んだ壮大なる法華経の世界は、かならずや人類の蘇生の泉として、スポットライトが当てられるであろうことを、私は信じております。
 アイトマートフ その点で折り合うことにしましょう。

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