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日蓮大聖人・池田大作

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環境破壊と依正不二の哲理  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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15  さてそこで、「私たち」は――というのは、私たち全部のことですが、つい最近まで、私たちに便利さやサービス等々の生活の豊かさを提供してくれている技術的進歩が、いかなる代償によって達成されたかについて思いわずらうことをしませんでした。
 そのことによって私たちは、何を犠牲にして現代文明の成果を享受しているかという未来に対する責任を背負ったままでいます。野蛮な自然破壊とか、地下資源の略奪が思い浮かびます。
 さらに悪いことは、そのような浮かれた大騒ぎが、すなわち、自然に対する権力の乱用がどのような結果に終わるかを命がけで警告した人々を破滅させ、貧窮にとどめおいたことです。
 以上の事柄にどのような打開策がありうるのでしょう? 仏陀の言葉で言えば、「汝のものでないものを取るな、それは滅びてしまうからである」ということになるのでしょうが、すぐにだれかから「きっとあなたは、何が自分のもので何が自分のものでないかを教えてくれるのでしょうね?」という皮肉たっぷりの質問が返ってくることはわかっています。
 もちろん、私は教えません。だれも、だれに対しても、そんなことは教えることができません。
 一人一人が、そして人類全体が、生きている自然界の言語を理解したいという欲求を感ずるようになることがまず必要です。それを感じ取れば、私たちに要求されていることが、みずからの欲望を抑えることだ、ということを理解するでしょう。
 私たちは大食らいです。私たちは何にも満足しません。つねに不足を感じています。しかし、だからといって、すべてを食い尽くすことは許されません。他の者のために何かを残しておかなければなりません。
 自然界では野獣でさえそうしています。狼は殺した獲物を完全には食い尽くしません。しかし、いずれにしても私たちは人間です。数十万年にわたって存在する人間の掟を守って生きましょう。周囲の世界がいかに美しいかを見、お互いに対して思いやりをもちましょう。
 そのためには、キリスト教徒なりイスラム教徒なりがどうしても仏教に改宗しなければならないのでしょうか? そうだと言いたい気持ちはありますが、かならずしもその必要はないとあえて言います。
 世界のすべての宗教は、それらを正しく理解するならば、すべて愛と美と人間性の土台の上に成り立っています。そしてすべての宗教が「環境国連」で出会うことができます。私はそういう機関を創設されるという考えを心から支持します。
16  池田 (笑いながら)敬愛するアイトマートフ大兄、他のところでも感じたことですが、私がそれに一言もふれていないのに、あなたは「改宗」ということにずいぶんとこだわっているようですね。
 それも、わからないではありません。あらゆる宗教は、それぞれに教義をもっていますが、とりわけキリスト教やイスラム教のような厳格な一神教の世界にあっては、この問題は、しばしば“改宗か死か”という、のっぴきならぬ選択を人々に迫ってきました。
 前に挙げた、ブルガリアの作家アントン・ドンチェフの『別れの時』は、十七世紀のオスマン帝国の支配下で、キリスト教からイスラム教への改宗を迫られたブルガリア人たちが、いかに過酷で、非道で、狡智にたけた弾圧にさらされていたかを描き出したものです。
 それはごく一部のものでしかありませんが、一部の宗教史を鮮血淋漓に染め上げている、「改宗」をめぐる悲劇を考えるとき、また共産主義イデオロギーという、非寛容な擬似宗教への「改宗」をめぐる途方もない悲劇に思いをいたすとき、あなたの「改宗」へのこだわりは、当然とも言えるのです。宗教的ドグマの名のもとに、人間――彼を取り巻く自然を含めて――の尊厳が踏みにじられるようなことを、決して許してはならないからです。
 それはそれとして、あなたのこだわりをほぐす意味からも、この種の問題に関する私の基本的な態度、考え方を、簡単に述べておきましょう。
 それは、核兵器や環境破壊などの地球的問題群にあっては、宗教的教義にもとづく「改宗」うんぬんは、第二義的な問題にすぎないということです。第一義的に重要な問題は、その教義にのっとって、宗教が核兵器や環境破壊などの諸悪に対してどう判断し、どのような態度で臨むのかという、人間観、自然観、宇宙観なのです。
 私が、人間と自然との共存・共生・共栄を機軸にする仏教の“依正不二論”に言及したのも、その意味からなのです。
 そうした観点に立つならば、「魂」の存在を人間のみに限定したキリスト教の人間中心主義と、動物はもちろんのこと、草や木、石にいたるまで「生命」の存在を認め、その上に成り立っている仏教の人間主義とを、同じ人間という言葉が冠されているからといって、同列に論ずることはできないはずです。
17  たとえば、有名な「創世記」の一節には、こうあります。
 「神は(中略)言われた。
 『産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい』」(前掲『聖書』新共同訳)
 これに対し、妙楽の著作(『止観輔行伝弘決』)では、たとえば鼻の息の出入りは山の沢や渓谷の中の風に擬せられ、口の息の出入りは虚空の風に擬せられています。また、両眼は日月に、その開閉は昼夜に、髪の毛は星辰に、眉は北斗星に、脈は江河に、骨は玉や石に、皮や肉は土地に、毛は叢や林に……と、それぞれ、人間が自然界に擬せられ、関係づけられていくのです。
 これを受けて私どもの宗祖は「このように我が身と天地とが一体不二であることをもって、天が崩れ、地が裂けるならば、我が身も裂け、地水火風が滅亡するならば我が身も滅亡すると知るべきであろう」(「三世諸仏総勘文教相廃立」御書五六八㌻)と述べておられるのです。
 キリスト教的自然観にあっては、動物を初めとする自然界は、人間の支配の対象である、いわば「部下」であるのに対し、仏教にあっては、自然は共生しゆく「友」であることは明らかです。
 その相違は、決して無視されて良いものではありません。もとより、そのことは、比較的仏教が浸透しているとされている日本で、環境破壊が少ないなどという結果に短絡するものではありません。第一、現代の日本の在り方が、どれだけ仏教の精神にかなっているかは、はなはだ疑問ですし、第二に、地球問題群のような“複合汚染”には、相応の多角的アプローチが必要とされるからです。
 それゆえ、私は、あなたの大らかな善意と願望には、十分に敬意を払いつつも「世界のすべての宗教は、それらを正しく理解するならば、すべて愛と美と人間性の土台の上に成り立っています」との認識は、一面において宗教のめざしたものを把握しているとはいえ、ややナイーブにすぎると言わざるをえません。
 宗教の善悪両面を、ともに厳しく吟味――もちろん、ソクラテス的意味での吟味、です――していく宗教批判の眼を養っていかないと、たとえば、イスラム原理主義の台頭といった現象に直面して、途方に暮れるといった事態を招きかねません。
 先に挙げた労働価値説にしても、擬似宗教としての共産主義イデオロギーを誤って理解したから、アラル海の危機といった惨状を招いたのではなく、正しく理解したからこそ、そうなったのです。問題は、理解のしかたではなく、労働価値説そのものにあったのです。
 そして、この次元で言えば、擬似宗教も宗教も、ほとんど五十歩百歩と言ってよいのです。断るまでもなく、以上申し述べてきたことは、「環境国連」のような場に、諸団体とならんで異なる宗教同士が参加し、それぞれの立場から協力し合うことを排除するものでは、決してないのです。
 むしろ人類の基本的問題については、仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、対話をし、その解決のために協力していきます。自然保護・環境保護の推進は、仏法の「共生」の思想から、当然のことです。
 妙楽
 七一一年―八二年。中国の天台宗の第六祖。中興の祖と言われる。

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