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日蓮大聖人・池田大作

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言葉の「明示性」と「含意性」  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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7  池田 「尊敬する友人たち」に関してなら、疑いなくそのとおりです。ところが、話を、たとえば外交のレベルヘ移せば、利害が食い違うことの多い国同士を代表する政治家が相対することになる。その場合は残念ながら現状を見るかぎり、言葉の「含意性」どころではなくなるでしょう。
 外交の技術はある意味では「かけひき」となり、そこで依拠さるべきものは対話ではなく「政治の力は行為することであって、演説することではない」(前掲「ゲーテ格言集」)という格言のようです。マキアヴェリズムが常となり、友情のような徳目が成立する余地は、なかなかなさそうです。もちろん、個々に優れた政治家がいることを否定するものではありませんが……。
 アイトマートフ 一般的にはそうかもしれませんが、しかし、現在は各国の利害が相互に結びつき、相互に制約し合っていて、「かけひき」をしても労多くして功少なしです。私たちはお互いに必要なのです。必要不可欠なのです。
 新思考はゆっくりとではありますが、この複雑な世界に着実に定着しつつあって、率直で、真心のこもった、誠実な言葉を必要としています。というのは、万人および各人の自由という観念は最高の全人類的価値であり、自然の恵みであって、そのことは全人類によって今日かつてないほど鋭く認識されつつあるからです。
 社会機構の「悪意にみちた」不公平な意志によって踏みにじられた自然そのものを復権させる必要があり、意味の相関性が完璧で、明確で、真実味のある言葉に一歩一歩道を譲っていかなければなりません。そしてその道は和合と調和の未来の世界へと通じています。
 自然は、幾世紀もの間、人間の権勢欲の、人間による人間の抑圧の、一つの民族による他の民族の支配の、「奴隷」と「主人」への分離の犠牲になってきました。
 人類の歴史は自由のための闘いの歴史である、とはよく言ったものです。もしそうならば、現代文明がおちいってしまった袋小路からの活路は、今までとは考えを変え、万人に理解できる自由と真実の言語で自分を表現することを学ぶことです。その言語こそ善意の人々を統一するよすがです。その統一はいつの世でも必要ですが、現在はとくに必要です。
 しかし、そのことは、芸術における真実、それよりもまず生活における真実が、いわば、より簡単に手に入るということを意味するものでは決してありません。ドストエフスキーによれば、真実は一語で表現されます。その語が真実の情熱の緊迫の中で発せられれば、です。
 小説に出てくる主人公は現実の生活とちがって、いったん出てしまった言葉を二度と取り消すことはできません。いっぽう、芸術家は、大デュマが言ったように、神が口述し、私が書く、といったような状態に自分を高めなければなりません。しかし……ここでもまた神はだれにでも口述してくれるわけではありません。
 今日私たちが、どうしてしばしば不明瞭で曖昧な書き方しかしていないか、ということの答えがそこに隠されています。つまり、その程度の生き方しかしていない。だから、言葉も妙なる光を発してくれない、というわけです。
8  池田 さすが、ゴルバチョフ元大統領のもとで、新思考外交の一翼を担ってこられたあなたの言葉は、清新な理想主義的な響きをたたえており、いわゆるメッテルニヒ流の良く言えば老練、悪く言えば老獪な政治家の発言とは一味違った、温かなヒューマニズムを感じさせます。
 その清新さは、ゴルバチョフ氏やJ・F・ケネディ元米大統領の登場時に、共通して見られたものであり、それゆえ、政治は、国民にとって好ましい関心事となっていったわけです。
 とはいえ、ケネディの場合もゴルバチョフ氏の場合も、その理想主義の路線は順調であったわけではなく、ある意味では、ともに挫折です。その難行苦行ぶりは、他ならぬ渦中にあるあなたが、最も身にしみて感じておられるはずです。
 願わくは、権謀術数をこととする政治の世界でどんなに泥まみれになろうとも、理想と現実を近づけよう、一致させようとする初一念だけは、絶対に手放さないでください。「万人に理解できる自由と真実の言語で自分を表現する」という遠大な理想を、決して摩滅させてはなりません。
 私が、何よりも心配しているのは、ここ数年来の激動の波間にあって、あなたが少々疲れ気味でいらっしゃるのではないかということです。先ほどあなたがおっしゃったように、「言葉の価値が極度に低下している」現代社会の状況下にあっては、疲れから言葉への失望、不信へは数歩をあますのみです。どうか、かけがえのない友人として、疲れを知らぬ、人類のための闘士でありつづけてください。
 ところで、たしかにドストエフスキーの言うように、真実は一語で表現されます。その「一語」があればこそ、疲れを知らぬ闘士でありつづけることができるのです。また、その「一語」を欠いているがゆえに、現代社会は、おびただしい言葉が符丁として飛び交っている反面、その言葉の内実は、恐ろしく空疎なものとなってしまいました。こうした状況――言葉を換えれば、言語の「明示性」も「含意性」も、二つながら毀たれているような状況ほど、繊細にして鋭敏な、そして傷つきやすい精神を疲れさすものはないのです。
 そこで肝要なのは「一語」です。日蓮大聖人は、中国の法華経の正師である天台大師の『法華玄義』の言葉を解釈して「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す」(「当体義抄」)。「妙法の至理には、もともと名はなかったが、聖人がその理を観じて万物に名をつくるとき、因果倶時の不思議な一法があり、これを名づけて妙法蓮華と称したのである」)とされています。
 「至理は名無し」とは、言語化される以前の混沌として豊饒なる世界をさします。前にふれたように、東洋思想とりわけ大乗仏教は、言語による物事の固定化を強く警戒しましたから、この混沌・豊饒なる世界、つまり「含意性」の世界の伝統的アプローチの多彩さは、類を見ません。
 とはいえ、その混沌・豊饒なる世界を統べ、というより貫いている「一語」がないわけでは決してない。それが「妙法蓮華」なわけです。この「一語」によって、「明示性」の世界の“画竜点睛”(物事の眼目となるところ)がなされ、「含意性」の世界との絶妙な調和、バランスが可能となってくるのです。
 やや、図式的な説明になってしまいましたが、ものすごい勢いで回転する独楽があたかも静止しているように見えるように、精神と情熱の諸活動が一点に集中し、緊迫した白熱状態の中から選り抜かれて発せられる「一語」が、いかに重い意味をもつかは、あなたならおわかりいただけるでしょう。
 その「一語」あるがゆえに、私は――人間は、と敷衍したくなります――、疲れを知らぬ闘士たらんと、日々を戦っているのです。
 次元は違いますが、また唐突なようですが、デカルトにとっての「コギト・エルゴ・スム」とは、まさに、そのような「一語」だったのではないでしょうか。
 大デュマ
 一八〇二年―七〇年。フランスの小説家、劇作家。作品に『三銃士』『モンテ=クリスト伯』など。その子を小デュマという。
 メッテルニヒ
 一七七三年―一八五九年。オーストリアの政治家。フランス革命、ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序の回復のために開かれたウィーン会議を主導し、巧妙な外交手腕でヨーロッパの新秩序を形成。
 J・F・ケネディ
 一九一七年―六三年。アメリカの第三十五代大統領。遊説中に暗殺された。
 デカルト
 一五九六年―一六五〇年。フランスの哲学者、数学者。近代哲学の祖。
 「コギト・エルゴ・スム」
 「我思う、故に我在り」。デカルトが確実なるものを求めてすべてを懐疑した末に得た、認識の起点。

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