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日蓮大聖人・池田大作

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ニヒリズムと宗教の復権  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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8  アイトマートフ あなたが言われる「宗教の復権」には私も全面的に賛成です。ほかに「宗教の復権」の道があるでしょうか?
 私たちの現代の社会では言葉は極度に価値が低下しており、虚偽――故意の、あるいは偶然の、いずれにしろ善良にもとづく虚偽――に染められてしまっていて、人々の心に呼びかけを行っても、それに対応する反響を得ることができません。なぜならば、人々はあらゆる種類の説教に対して前もって疑いの念をいだいているからであり、なによりも目に見える真の人間の道の証を求めているからです。
 社会の病弊の原因の一つは精神の病気です。その診断については、だれが行っても大きな食い違いはないように思いますが、その病気は言葉と行動との不一致によって生まれたものです。言うことと、行っていることとが違うという問題です。
 この状態はあまりに長くつづいてきました。そこで、虚偽にもとづく生活をたんに個人個人に対する侮辱としてだけでなく、ヒューマニズムの理想に対する侮辱と受け取る「無邪気な未成年者」(アヴジイ)や変人がつねに存在するし、また現れてくるわけです。アヴジイにとっては、彼は正教徒でしたから、ヒューマニズムの理想の体現者はキリストでした。
 「復権」の問題は、さほど簡単ではないように思います。教会を社会の低い地位に押しやり、信者を「二級の」人間にして、のけ者にしてしまったような法令を廃止することはもちろん必要です。しかし、教会と真の信仰という問題は、私たちがすでに話したように、それとはまったく別次元のものです。旧教徒はいみじくも「神がいるのは肋骨の中であって、材木の中ではない」と言っています。
 私が言いたいのは、宗教がみずからの権利を獲得するのは、人々、および社会が、神および高度な精神に対して渇きにも似た欲求を感ずるようになり、それなしには「良き」生活も少しも良くないと自覚するようになってからだろう、ということです。
 そして、その自覚とともに鏡で見るように自分を見つめてみれば、私たちが人間としてどんなに忌まわしい誘惑に魅入られてしまっていたかがわかり、恥じ入ることでしょう。もしも私たちが恥じ入れば、そして恥ずかしさが私たちの心を焼き焦がすようなことがあれば、私たちも生き方を変えるようになるだろうと期待することができます。
 それはいつ起こるのでしょうか? どのように起こるのでしょうか? それはわかりません。わかっているのは、かならず起こるだろうということだけです。すでに一部の人々にはそれが起こっています。そのことが希望を与えてくれます。
9  池田 私たちは、お互いに歴史の主体者であって、傍観者ではありません。かならず起こるだろう、いやかならず起こしてみせるという、その「確信」が大事なのです。決めたほうが勝つ。これはトルストイの『戦争と平和』の洞察です。その一念が定まらないところに、じつは敗北の影も宿る。決めれば勝つという意味において、私は楽観主義者です。
 たとえば、ガンジーの「非暴力」を思い起こしてください。彼は言っています、「非暴力には敗北などというものはない。これに対して、暴力の果てはかならず敗北である」(前掲『わたしの非暴力Ⅰ』)と。真理に生きる者は、たとえ囚われの身であろうと、つねに勝利者である。それはまさに、本質において勝っているからです。
 ガンジーはこうも語っています。「私はどこまでも楽観主義者である。正義が栄えるという証拠を示し得るというのではなく、究極において正義が栄えるに違いないという断固たる信念を抱いているからである」(前掲『《ガンジー語録》抵抗するな・屈服するな』)
 信念の強者は、また楽観の強者です。時代と世界を動かす根源的要因の萌芽も、このような強き一人の「胸中」にこそひそんでいる。決して下部構造のいかんや、制度・機構といったハードな側面にあるのではない。時代の変革も、何よりも一人における“内面の革命”、つまりソフトな側面が機軸になると私は確信しています。
 「制度」から「人間」へ、「ハード」から「ソフト」へ――。時代の潮流は、確実に動いています。私たちの戦いも、またそれを志向したものにほかなりません。一人の「人間」の内なる「確信の世界」を鍛え広げる戦いです。

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