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日蓮大聖人・池田大作

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ドストエフスキーの宗教観  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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6  池田 民衆の幸福に奉仕するはずの聖職者が、神の名のもとに、貪欲に「いけにえの子羊」を求め始める転倒――残念なことですが、それが歴史の常です。そして私たちSGIが、今、展開しているのも、まさに、そうした「権力化した宗教」に対する戦いなのです。
 聖職者がひとたび、人間を奴隷化しようという欲望に取りつかれると、どれほど堕落するものなのか。どれほど権力の獣性をむきだしにしてくるものなのか。私たちは、その醜さを、つぶさに見てきました。
 そこで痛感することは、民衆が堕落した聖職者に対して沈黙し、手をこまねいているならば、「権力化した宗教」は、どこまでも民衆につけ入り、抑圧の魔手を伸ばしてくるということです。善意の人々が、その善意ゆえに、不幸のどん底に投げ入れられてしまうという悲劇です。
 この悲劇から逃れる道はただ一つ――「徹底して戦いぬく」ことしかない。民衆が、権威や慣習や伝統の威光に目をくらまされることなく、信仰の正義を守りぬくしかありません。
 民衆が戦うべき時に戦わなければ、どれほど陰惨な結果を招いてしまうか。その「戦うべき時」の大切さを教えてくれる文学作品に、ブルガリアを代表する現代作家、アントン・ドンチェフ氏の『別れの時』があります。
 舞台はオスマン・トルコ帝国支配下のブルガリア。トルコ人は、イスラム教への改宗を住民に強要します。拒否する者には、想像を絶する極刑が待っている。大勢に従い、次々と改宗していく人々――ドンチェフ氏は、支配者側の一人に、こう言わせています。「一頭の羊が歩きだす方向へほかの羊もついていく。おまえは羊を一頭、群れから引き離そうとしたことがあろう? たやすいことか? むずかしい。ほかの者たちから何と言われるか――これがやつらには辛いのだ」(松永緑彌訳、恒文社)と。
 周囲に雷同して自分を見失う。驕れる者に屈してしまう。悲劇は、そうした羊のような善良さゆえに増幅されていくのです。
 ゆえに人間は、「権力化した宗教」の前に断じて屈服してはならない。「小羊の群れ」であってはならないのです。創価学会の牧口常三郎初代会長は、よく「羊千匹より獅子一匹」と言われていました。大切なのは、獅子のごとき一人の勇者の存在です。権力に抗して戦う「民衆の導きの人」です。その一人のあとには、かならずや第二、第三の獅子がつづくでありましょう。一人の勇気ある行動の触発が、万人の自由の凱歌を生むのです。
 その意味で、私たちが進める「宗教革命」の闘争は、独り私たちが信奉する仏法の正義を守ることのみにとどまるものではありません。それは「宗教の権力化」という問題をめぐる、人類の流転の根本的な転換へ、まっすぐに道が通じている。私は、そう確信します。
 アントン・ドンチェフ
 一九三〇年―。
 オスマン・トルコ帝国
 オスマンが一二九九年に建てたイスラム教国家。一九二二年、革命によって滅亡。
7  アイトマートフ ここで、王様は裸だと言ったアンデルセンの童話の男の子を思い出す必要があります。そして問題は、ここでは大人が明白な事実を目にしても、それを口に出して言う勇気がなかったということにあるだけではありません。この童話のさらに深い意味は、大人たちの目には見えなかった、ということにあります。
 彼らの目には「裸」が「服を着たもの」に見えるほど歪んでいたのです。嘘をつくことのできない、私欲のためのごまかしを受け入れることのできない子どもの、偏見のない、損なわれていない目の出現が必要だったのです。それがアヴジイなのです。彼は永遠の幼児です。
 思うのですが、真の聡明さと幼年時代とは切り離すことができません。そしておそらくそこに彼の長所があります。彼は世界を最初にできた状態のままで、人間をまだ罪の影がふれる前の姿で見る能力をもっています。
 このことと関連して、新たに生まれ変わるためには、世界を、神が創造の最初の日に見たような姿で見る必要がある、と言ったアントニー府主教の言葉が思い出されます。神自身が驚いたのです。これは聖書の中の驚くべき個所です。どうしてか私はつい最近そのことに気づきました。
 このように、白状しますが、私は後になってから考えています。そのことを別に悪いとは思っていません。むしろ当たり前のことですが、しかし、作品がすでに書き上げられ、読者や批評家の判断にゆだねられてしまってから考えが浮かんでくるというのは悔しいかぎりです。もしもあれこれの判断がもっと早く、作品を書いている過程に生まれていたら、おそらく、主人公の「無邪気さ」はもっと少なくなっていたでしょう。
 しかしそのことによって彼の人生は楽になったでしょうか? 彼の運命は変わったでしょうか? ましてやドストエフスキーも「心の知性」を「頭脳の知性」よりもはるかに高く評価していたから、なおさらです。もちろん、これは『白痴』の中でアグラヤが言っている言葉です。しかしこれはドストエフスキー自身の心に秘めた、好きな言葉であると思います。
 まさに私はそのような、「心の知性」によって生きる主人公を探し求めていたのです。最高の真理を渇望し、そのためには自分の命をも犠牲にしかねないような人物がいるにちがいない、いや、実際にいるということを、初めはうすうす感じていたにすぎませんが、やがてしだいにはっきりと意識するようになりました。
 というのは、真の知識といっても、それが心の外にあるものなら、それは「死んだ記号」にすぎず、上流社会の検閲によって認められた訓戒を仰々しく口にしている偽善者の領分にすぎないからです。
 幻想と妄想の世界にこれ以上生きることは、みずからの存在に反することであり、不自然なことである。なぜならばそれは好むと好まざるとにかかわらず、人々から、人々の実生活から遠ざかることになるからだ、ということを明確に理解した主人公にとって、袋小路から脱け出ることのできるどのような救いの出口がありうるのでしょう? 「神殿」に住む伝道者はせいぜいのところ人々に一時的な忘却を、彼らが神の殿堂の外へ残してきた苦悩からの一時的な休息を与えることができるだけです。
 しかし人々への奉仕とは、そんな表面的なものではないはずです。それは、人々の心に、精神的エネルギーの無尽蔵の泉――生への愛と感謝――を喚び起こし、その助けによって人々が世界と自分自身への、その人なりの関係の創造者になることを望むように仕向けることにあります。そして、それができるのは、前もって人々への愛の道を選び、みずからをそれに捧げた人間だけです。
 その人の言葉は、借り物でもなければ、書物による知識でもない、みずから選んだ運命として苦しみぬいてつかんだ道徳的経験の「黄金の貯え」をもっています。借り物では、自身の歓喜も他人に与える喜びもたいしたものではありません。
 真の喜びは、人間が道を探求する過程で、硬化した教義や決まりの枷から解放される時の、何にも例えようがない、まばゆいばかりの奇跡を突然感ずる、認識の中にあります。その時は果てしない大空が目の前でその扉を開くような感じがするものです。……最高の喜びは解放の喜びです。
 アンデルセン
 一八〇五年―七五年。デンマークの童話作家、詩人。
8  池田 「借り物」ではなく、自分自身で選び取った心の中に生きる喜び、わが内なる精神の大地に深く根を張るがゆえに、いかなる風雨にも揺らぐことのない「真理の大樹」を仰ぐ幸福――人生の至福の一つです。
 そうした人生を求めて進む「求道者」のイメージは、かの『カラマーゾフの兄弟』の末弟アレクセイ・カラマーゾフの姿を思い起こさせます。
 彼、アリョーシャ(アレクセイの愛称)は、あたかもその両腕に大地を抱きしめんばかりの情熱で真理を求め、愛しゆく。真理に到達するためには、自身のすべてを投げ出してもかまわない――そんな若き求道者として描かれています。
 しかも狂信や陰鬱な苦行者といったイメージとは無縁の、彼の健全さ、明朗さ、誠実で真摯な振る舞い。ドストエフスキーが、登場人物をして、繰り返し「天使」とすら賛嘆させているように、その求道の魂には、「純なるもの」という意味での、「完き信」「全一なる信」という言葉こそふさわしい。
 その清澄な心は、たとえば「聖書にも『もし完からんと欲せば、すべての財宝をわかちてわれの後より来たれ』と言ってある。で、アリョーシャは心の中で考えた。『自分は“すべて”の代わりに、二ルーブリ出し、“我の後より来れ”の代わりに、祈祷式へだけ顔を出すようなことはできない』(=“ ”は原文中では「 」)」(前掲書)といった言葉に、見事に描かれております。
 その上、彼は、煩悩の深淵をさまよう父親と長兄、鋭利な無神論者の次兄などとの葛藤を繰り返しながら、自分の内面をさらに深く掘り下げていきます。
 現実の懊悩に直面し、それへの回答をみずからの胸奥に問いかけつづける中で、それまでの「愛すべきアリョーシャ」の相貌に、人生の別の彩りが加わっていく。アリョーシャは、経験の旅の重さゆえにはるかな飛躍をとげた人格、いわば新しいアリョーシャとして生まれ変わっていく。「求道の炎」ゆえの、この「内面への旅」「信仰の内面化の旅」――ここに、『カラマーゾフの兄弟』が提示する重要なテーマの一つがあると言ってよいでしょう。
 つまり、真理とは、夢のかなたにあるのでも山の奥深くにあるのでもない。苦楽と愛憎織りなす「現実」の中にある。人は、そのただ中へ飛び込んでこそ、自分自身を打ち鍛えていくことができる。真理を、一つ一つ確認し、再発見し、真に自分のものとしていくことができる。それがアリョーシャに具現されているのです。
 修養のため、アリョーシャは、いったん修道院をあとにします。その彼に長老ゾシマは、「人々を和解させ、結び合わせていく」人間としての成長を期待しました。
 現実との格闘の中に真理の発見はある。それはまた、他者と自己の内面を貫き結ぶ、「普遍」の発見の旅でもある。してみれば、ゾシマが示した「愛し能わざる苦悩」であるところの「地獄」を克服しゆく鍵も、アリョーシャのこの「内面への旅」「信仰の内面化への旅」というテーマにこそ、隠されているのではないでしょうか。
 周知のとおり、ドストエフスキーは、その後のアリョーシャを描く、『カラマーゾフの兄弟』の続編を構想していました。その中で彼が、この「内面への旅」というテーマを、どう展開していこうと考えていたのか、内なる魂の世界と、外なる「カラマーゾフ的」現世との間に、どのような架橋を構想していたのか、人間完成への果てない道程を凝視する文豪の眼光に、興味は尽きません。

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