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日蓮大聖人・池田大作

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非暴力に関する私の一考察  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
11  私は、このへんでロシアを離れ、ベルジャーエフの言う「人間的なもの」という課題を、人間の「自己規律の力」という、ロシア人にかぎらず人類にとって普遍的な課題に置き換えて、論を締めくくってみたい。冒頭の夏目漱石の『行人』の中で「一郎」が、平手打ちをくわせた友人の「H」に「やっぱり怒るじゃないか。ちょっとした事で気分の平均を失うじゃないか。落ち付きが顛覆するじゃないか」とせまっているのはまさに、事ある時にみずからを律しえずして、非暴力などを言挙げしても、笑止であり絵空事である、との難詰である。けだし、この「自己規律の力」こそ、ともすれば暴力か非暴力かという二者択一、果てしなき、不毛の二律背反におちいりがちなこの問題を弁証法的に止揚し、非暴力を恒久平和への時代精神にまで内実化させゆくキーワードとは言えまいか。
 そして、仏法は、理想的人格としての「仏」が「覚者」とされているように、人間の優れて内面的な自覚と覚醒による自己統御、すなわち「自己規律の力」の発現の方途を、徹底して説き明かしているのである。
 ここでは、その一端として、仏法の根本教理である「縁起」という考え方に簡単にふれておきたい。「縁」とは結びつき、繋がりを意味し、仏法では、すべての現象が「縁」によって「起」こると説く。人間界であれ自然界であれ、そこに生ずる出来事は、一つとして単独に生じるものはなく、一切は、相互の結びつきの中で起こってくる、としている。
 また、「縁」といえば「順縁」と「逆縁」という立て分けがある。「順縁」とは素直に仏教と縁を結ぶこと、「逆縁」とは、仏教に反対し悪事を働くことが、かえって仏道への縁となることを意味している。これを敷衍して論ずれば、平和友好的な結びつき、対立し反目する敵対的な結びつき――、この二つの関係が、ともに「縁」という共通項でくくられうること、さらに、対立し敵対する他者をも無縁のものとせず、「逆縁」という結びつきの一つの在り方であり発現であるととらえることができる。したがって、対立・敵対といっても恒常的なものではなく、より大きな結びつきにいたる途上での“紛争”“荊棘”と位置づけられているのである。
 それを象徴的に示しているのが、提婆達多への成仏の約束である。提婆達多は、釈尊のいとこであり、弟子でありながら、反逆し、釈尊の命を狙うなど迫害の限りを尽くした悪人だが、にもかかわらずその「逆縁」によって未来における成仏を約されているのである。したがって仏法では「順縁」=味方、「逆縁」=敵といった対立的思考は、決して生じてこない。ナチズムやスターリニズムに顕著な、相対立する人間や集団を敵と決めつけ、抹殺し去るような思考方法は、仏法とは原理的に無縁である。対立的思考方法では、人間関係を綾なす「縁」そのものを破壊し、「沐浴の水といっしょくたに、子どもまで流してしまう」というドイツの諺そのままの結果を招いてしまうであろう。したがって、すべてを「善と悪」「光と闇」「敵と味方」に二分していくマニ教的二元論のタイプほど、仏法的発想と遠いものはないのである。
12  私は、ここに「自己規律の力」の際立って自発的・内発的な発現へのうながしがあると思っている。なぜなら、対立する相手の中にも「悪」と同時に「善」を認め、みずからをも「善」にも「悪」にもなりうる存在であることを自覚することのできる自己客観化能力――相手を一方的に「悪」とし、自分を独善的に「善」とする自己絶対化とは対極にあるこの能力は、言葉の真の意味での精神の緊張と充溢を必要とするからだ。そうした「自己規律の力」は、ガンジーが「非暴力を行なうには、剣士よりはるかに大きな勇気がいる」(前掲『わたしの非暴力Ⅰ』)と述べているように、真実の勇気の異名でもある。
 ゆえに、私はかねてより、仏法を基調に平和・文化・教育を推進しゆく創価学会インタナショナルの社会的役割、使命を、「暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を侵しつづける“力”に対する、内なる生命の深みより発する“精神”の戦いである」と位置づけているのである。
 そうした精神に立脚して、SGIは国連経済社会理事会および広報局のNGOとして世界の平和のため、国連と協力してさまざまな活動を展開している。たとえば十六カ国二十五都市で開催された「核兵器―現代世界の脅威」展、一九八九年十一月ニューヨークの国連本部で開催されたあと世界各地を巡回している「戦争と平和展」、難民支援のための募金運動……。さらには二十七カ国四十大学に達した創価大学と世界の大学との教育・学術交流、民主音楽協会や東京富士美術館などによる文化・芸術交流等々、それら国家を超えた多岐にわたる活動は、現在、海外百十五カ国(地域)に活躍する百二十六万人のメンバーのネットワークを編み上げようとするものである。
 そうした活動の根底をなすものこそ、「対話」と「相互理解」による精神の戦いである。一滴一滴の水が集まって大河を形成するように、人類総体に平和への自覚をうながし、二十一世紀にはかならずや大きな実りをもたらしていくと、私は確信している。(=一九九〇年秋、ソ連「非暴力研究所」の要請を受けて執筆)
 マラー
 一七四三年―九三年。フランス革命時の政治家として革命を進めたが、暗殺された。
 ボシュエ
 一六二七年―一七〇四年。フランスの神学者。
 A・フランス
 一八四四年―一九二四年。フランスの小説家。
 K・ヤスパース
 一八八三年―一九六九年。ドイツの哲学者。
 “神のもの”と“カエサルのもの”
 カエサルは前一〇〇年―前四四年。ローマの将軍、政治家。新約聖書マタイ伝に「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に納めよ」とある。カエサルは俗権の象徴。
 “一匹”と“九十九匹”
 新約聖書マタイ伝に、百匹の羊のうち一匹が迷っていなくなれば、九十九匹をそのままにしておいて一匹を探す、とある。天国に入る資格のある幼児のような小さな者を大切にせよ、との教えの譬えとして出ている。
 ルター
 一四八三年―一五四六年。ドイツの宗教改革者。ローマ教皇に抗し破門され、宗教改革の発端となった。
 カルヴァン
 一五〇九年―六四年。フランスの宗教改革者。厳格な聖書主義を説いた。
 シュティルナー
 一八〇六年―五六年。ドイツの哲学者。
 I・ドイッチャー
 一九〇七年―六七年。ポーランド生まれのジャーナリスト、ソ連研究家。
 チュッチェフ
 一八〇三年―七三年。「ロシアを物差しで……」は『ベルジャーエフ著作集7』田中西二郎・新谷敬三郎訳、白水社を参照。
 ナロードニキ
 人民主義者。十九世紀後半の帝政ロシアにおいて「民衆の中へ」をスローガンとした急進的知識階級。
 ツァーリズム
 帝政ロシア時代の皇帝による専制政治政体。
 べートーヴェン
 一七七〇年―一八二七年。ドイツの作曲家。ハイドン、モーツァルトとならぶ古典派の巨匠。晩年、聴力を失いながら「第九(交響曲第九番ニ短調)」を作曲するなど、数々の名曲を残す。
 D・H・ローレンス
 一八八五年―一九三〇年。イギリスの小説家。
 クロムウェル
 一五九九年―一六五八年。イギリスの政治家。清教徒革命のさい、国王を処刑し共和国を樹立。
 ロベスピエール
 一七五八年―九四年。フランスの政治家。フランス革命で国王を処刑し恐怖政治をしいた。
 マニ教
 ペルシャのゾロアスター教に、三世紀にマニがキリスト教と仏教の要素を加えて創った宗教。善(光明)と悪(暗黒)という二元的自然観をとった。

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