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日蓮大聖人・池田大作

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宗教における「不変」と「可変」  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
6  おそらく、そのとき私は「美は世界を救う」というドストエフスキーの言った謎めいた文句の意味を、よりはっきりと理解し始めたように思います。
 とたんに恐ろしくなりました――いやはや、何という素晴らしい泉が我々から隠されていたことか!我々はいったい、どのように生きてきたのだろう?どうして本などを書くことができたのだろう? それのみか、一部の人々のように「人生の教師」を気取ることができたのだろう? と。
 身震いするほど恥ずかしい思いをすることがよくあります。原因は自分自身の無知蒙昧さにあります。加えて、科学技術革新の時代の現代人は、たとえば飛行機に乗って空を飛ぶなどということは想像することすらできなかった我々の先祖よりは「ずっと賢い」と考えていたりすれば、なおさらです。そこにこそ危険な無邪気さ、奴隷の思い上がりがあります。
 だれか、二十世紀の「スーパーマン」が、「教養のもたらす」偏見なしに、自分は科学技術革新の偉大な成果の恩恵を受けている者だというようなうぬぼれなしに、使徒パウロの古風な文章の、次のような個所を読んでみるがいいと思います。
 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(前掲『聖書』新共同訳)
 そしてあらゆる物事の本当の尺度は、死を前にしての善と悪の秤によって決められるということをよく考えてみてほしいと思います。そうすれば、その人は、自分の内部にあらゆる時代とあらゆる宗教に共通の、人間の普遍的な使命を感ずるでしょう。そうすれば、それ以前に幸福と呼んでいたような幸福は、空虚な妄想であり、幻想であったことを知るでしょう。
 私たちの社会における信仰――宗教的信仰――の道は本当に十字架の道です。現代の伝道者の一人がそれを次のように定義しました。「昔は宗教は人々の行進の先頭に立つ旗だったが、今は、負傷者を拾い集めて行く荷車である」。この言葉にはかなりの真実があるように思います。
 現在は、さいわいにも、事態は好転しつつあるように思われます。良心の自由に関する法律が採択されました。しかし、すべてが急速に正常に戻るだろうという予測については、慎重にとは言わないまでも、控えめにならざるをえません。
 しかし、そうなることを信じたいと思います。私たちは寛容さを学び取らねばなりません。教会そのものにおいても、私たちの共通の生活においてもです。己の心に愛があるならばそれは可能です。
 ロシア正教
 ビザンチン帝国で成立し、一〇五四年に西方教会(ローマ教会)と分離したキリスト教を東方正教会といい、その中で最大の規模のものをロシア正教会という。
 パウロ
 初期キリスト教の伝道者。キリスト教のローマ帝国における普及に功があった。
7  池田 かつてのソ連で「神」に有罪判決を下して、空へ向かって鉄砲を撃っていたなど、寡聞にして知りませんでした。今から見ればほとんど児戯に類することですが、人々がそれを大まじめで行い、反宗教宣伝の嵐が吹き荒れたことを考えれば、決して笑ってすませることではありません。
 それゆえ、寛容ということは、非寛容で狂言的なファシズムやコミュニズムなどのイデオロギー――それは、程度の低い代替宗教でしかありませんでした――の悪酔いからようやく醒めつつある二十世紀末の我々にとって、最も重要な役目をもつものとなってくると思われます。
 世界中の、各界さまざまな人々とお会いしてきた私の経験に照らしても、一流の人格をただよわせている人物は、例外なく寛容であり謙虚です。もとよりそれは優柔不断や自信の欠如を意味するものでは決してなく、宗教的次元にかぎらず、確固たる信念に支えられて生きているがゆえに、彼らは人を容れるのに寛容であり、人を認めるのに謙虚なのです。ある種の精神的余裕と言ってもよいかもしれませんが、寛容さや謙虚さは、むしろそうであればあるほど、彼の人間としての自信や信念を鍛え上げていくものです。
8  宗教にあっても、その宗教的確信の絶対性は、決して偏狭・盲目であってはならず、つねに“他”に向かって開かれていなければなりません。宗教間の対話は、時に白熱化することはあっても対話であるかぎり、寛容さや謙虚さをはじめ、総じて人間の善性――愛であり、友情であり、信頼であり、希望です――を磨き上げ、鍛え上げていくはずです。
 それはまた、あなたが「全人類的な道徳的価値と文化的価値を担っている部分」と呼んでいるところや精神性の形成に、かならずや資するところ大であるはずです。
 巨人トルストイが、己の存在をかけて訴えつづけた、聖性のシンボルの内面化も、そこに通じています。彼が「神の王国はわが胸中にあり」と言う時、「神の王国」とは、人間の善性――彼が類まれな愚直さで希求しつづけた人間の証である善性の総称でもあったはずです。自己の内面に「神の王国」をもつ人こそ義の人、完き人、最も善き人、嘉せられし人、強き人と彼は考えていたはずです。
 そうではなく、教義や儀式・典礼、堂宇など、外面的な“形”に聖性のシンボルを求めると、どうしても形式主義、閉鎖主義におちいってしまいます。
 信仰が信念を鍛え上げるどころか、“形”への執着は、ドグマティックな狂信の温床にさえなりかねない。そして、狂信から生まれるものは、謙虚や寛容とは百八十度異なる非寛容な独善であり傲慢であることは、申すまでもありません。そのような宗教は、“百害あって一利なし”であり、「負傷者を拾い集めていく荷車」にさえなりえないでしょう。
 したがって、宗教を奉ずる者はすべからく、次のようなガンジーの言葉に引き合わせて、己を検証することが不可欠となってくるのです。
 「寛容が大切になる。その寛容はなにも自分自身の信仰に無関心になることではなく、一段と理性的に純粋にそれを愛することである。寛容によって精神的な洞察力が身につくが、その洞察力は狂信とはとてつもなくかけ離れたものである。宗教上の真の知識は信教間の障害を打ちこわすものだ」(K・クリパラーニー編『《ガンジー語録》抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)
 コミュニズム
 共産主義。生産手段を個人ではなく、社会の所有とする社会をプロレタリア革命によって実現しようとする主義、運動。その社会ではすべての階級は消滅しているとされる。
 ガンジー
 一八六九年―一九四八年。インドの政治家、民族運動の指導者、インド独立の父。非暴力主義を貫いたが、宗教対立のなか、凶弾に倒れる。

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