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日蓮大聖人・池田大作

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制限主権論の錯誤  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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4  しかし、「新しいソビエト人」の誕生というまやかしのスローガンで私たちの意識がふさがれていた時でさえ、私たちはウクライナ人、キルギス人、ロシア人、ユダヤ人等々でありつづけていましたし、当時にあっても私の忘れることのできない師、ムフタル・アウエーゾフの「私が誇るのは、カザフ人の子であるということではなくて、人間の子であるということである」という予言者的な声が響いていました。ただ、だれがそれを耳にしたでしょうか? 今、だれがそれを聞いているでしょうか。
 それぞれが衝突の中で、相手に対して、自分がどの民族に属しているかを証明しようとしていますが、自分のことを「私は人間の子だ」と言える人は少ないのです。
 罪なくして罪を着せられた人々の争いは見るに忍びません。しかし、狂気の情熱にとりつかれて、私たちがまず第一に人間であることを忘れてしまったからには、やはり罪ある人かもしれません。私たちはそのようにさせられてしまったのでしょうか? そうかもしれません。だとしたら、今や立ち止まって、悪のためではなく善のために自由をより良く利用するためにはどうしたらいいかを考えてみるべき時ではないでしょうか。
 それとも、私たちを待っているのは、歴史的なチャンスを失ってしまったということについての苦い後悔なのでしょうか。自由に値しない人間であることが判明し、自由を奴隷にふさわしいようなやり方で使ってしまったということについての、後悔なのでしょうか。そうなったら私たちはだれを非難するのでしょうか。
5  池田 他の民族を尊重し、すべての人々と抱擁し合うためには、「私は人間の子である」という自覚がなによりであるというあなたのご意見は、よく納得できます。
 たしかに、人種をはじめ宗教、社会体制など、とうてい融和できそうもない前提条件が、それぞれの民族を特徴づけております。しかし、そうした事実上の民族や国境の壁を、想像以上の壁として乗り越えるだけの「人間の子」の自覚は、民衆の心の中に決して失われてはいないし、人間の本能と言ってもよいくらい根強いものであると信頼してもおります。
 たとえば、日露戦争を舞台とした日本のある作家の作品に、次のような史実が記されております。それは、日本軍の連隊本部にロシア兵が捕虜となった。そこで、中隊長が兵を集めて、捕虜見学の希望者を募ったところ、半分しか希望しなかった。中隊長はその理由を問いただすと、一人の兵隊が、こう語った。「自分は在郷のときは職人であります、軍服を着たからは日本の武士であります。何処のどういう人か知りませぬが、敵ながら武士であるものが運拙く捕虜となって彼方此方と引き廻され、見世物にされること、定めて残念至極でありましょうと察せられ、気の毒で耐りませんから自分は見学にいって捕虜を辱めたくありません」(長谷川伸『日本捕虜志』中公文庫)と。
 この言葉は中隊長の胸を打ち、結局、捕虜見学会は中止になったというのです。「何処のどういう人か知りませぬが」という言葉からは、一職人の心にごく自然のうちに宿されている、「同じ人間ではないか」との思いが伝わってきます。
 戦争は、決して人と人の関係ではなく、国と国の関係のことであり、そこでは個人は人間としてではなく、市民としてでさえなく、ただ兵士として偶然に敵になるにすぎないのであり、国家は人間同士を敵にすることはできないというルソーの言葉が思い出されます。この職人も、そして本質的にはどんな人も、戦争などしたくないのです。このような人間本来の心情を、民族を超えた信頼と友情へと発展させることが、民族の間の融和をはかる上で何よりの基礎となると私は考えます。
 また、旅行、会議、電波など多くの点で、世界はますます一体化しつつあることからも、民衆レベルでの友情を深めやすくなってきていると言えましょう。国家間の関係は、国家エゴにとらわれてしまう。互いの間に、遠心的な力が働きます。こうした排他性の強い「国際関係」よりは、民衆同士の心の絆を広げていく大規模な民衆交流――「民衆関係」の今後に、私は大きな期待をもっておりますし、私なりに努力もしております。

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