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日蓮大聖人・池田大作

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国益から人類益へ  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
7  西欧文明、なかんずくキリスト教文明が世界を支配したのは、その教義的優位によるものではなく、植民地政策の結果と言ってよいでしょう。ゆえに私たちが未来に指向すべきは、明らかに文化と文明の多様性であります。
 ところで、この多様性を唱える学者たちは、将来なんらかの普遍的宗教が登場する可能性はないとみています――私自身は魂のそのような統合を渇望しているのですが――。なぜならば、そのような普遍化した宗教は、必然的に合成的なものになり、そこでは豊かな感情が欠落してしまうからだと主張しているようですから。
 しかし私は、すべての世界宗教を結ぶ共通項は「普遍性」にあると思っています。その普遍性を指向しているエキュメニズムを、世界の心ある人々、良識の人々がしっかり支えていくべきだとも考えます。
 世界の各地でさまざまな紛争が化膿した腫れ物のように噴き出しているときに、そのようなことを言うのは無謀であることはわかっています。おめでたい理想主義者と見られるでしょう。そう言われてもかまわないと思っています。人類は、生き残って、子孫を残そうと望むならば、団結しなければなりません。私は「望むならば」と言いましたが、じつはそこが問題なのです。
 種を保存するという本能を失いつつあり、あるいは失ってしまったような人間もいます。この現実は、それがいかに苦い恐ろしいものでも、ぜひ直視していくべきです。現代人は、あたかも、自分の中にたまった悪意と絶望感をもてあまし、それを昇華させる努力もせずに、いたずらに野望をいだくことで自身をごまかし、その野望のためには未来の世代を犠牲にすることもいとわないように見受けられるのです。
 本来、人間の最高の幸福は、生命を尊び、愛するという行為の中にあるはずなのです。それを多くの人々が忘れてしまったかのようです。であれば、思い出すように働きかけていきたいものです。後になって悪夢から覚めた人々が、「なぜもっと早く知らせてくれなかったのか」と嘆くことのないようにです。
8  池田 冒頭の書簡でふれたエリー・ヴィーゼル氏の言葉を、もう一度想起してみましょう。彼は、傷心のゴルバチョフ大統領の印象を生々しく語ったあと、次のように述べています。
 「世紀末が近づきます。すべては失敗でした。夢が悪夢になって、共産党は崩壊しました。問題は、何が共産主義にとって代わるのか、ということです。ナショナリズムだという人もいます。私は、むしろ宗教だと思います。組織化された宗教のことでなく、宗教性ということです。私たちに欠けているのは精神性です。だからこそ私は、より高度で、より説得力があり、かつ慎ましやかな『ヒューマニズム』こそが、あらゆるイデオロギーや狂信的な動きにとって代わると思います」(前掲『朝日ジャーナル』)と。
 私は、全面的に賛成であり、なおかつ、そのようなグローバルな流れを作っていかなければならないと思っています。普遍的宗教なるものの内実がどうであれ、それは、ヴィーゼル氏の言うところの「ヒューマニズム」の形成に寄与するものでなければならず、それには、固定化された教義や組織などの“ハード”な側面よりも、人間の内面から発現してくる宗教性、精神性といった“ソフト”面が重視されるべきは当然のことでしょう。
 そうした宗教が、はたしてありうるのかどうかは、たしかに人類的課題であります。互いに争い、相せめぎ合って屍累々たる宗教史に愛想づかしをするのは当然ですが、だからといって、諸宗教が単純に統一すればよいというものではないし、実際問題、それは不可能でしょう。よし、可能となったとしても、そうした方向づけが、宗教そのもののバイタリティーを減少させてしまうという、あなたの挙げた学者の意見も一理あるのです。
 その上で、なおかつ私は、あなたの「私自身は魂のそのような統合を渇望している」とのひそやかな願いに応えうる宗教はある、と申し上げておきたい。そうではなく旧態依然たるセクト争いを繰り返したり、その結果「ヒューマニズム」どころか、「人間」や「人間性」を狂信の奴隷にしてしまうような宗教に未来はなく、普遍的宗教を名乗る資格などありません。
 そうした点を感じ取ってくれたのでしょう、ヴィーゼル氏は、今春、私どもの運動、理念について、次のようなコメントを寄せてくれました。
 「宗教は本来、人々を結び合うものであって、分離させるものではありません。しかし同時に、過去幾世紀にもわたり、神の名のもとに宗教が殺し合いの歴史を繰り返してきた事実を忘れてはなりません。だから、宗教は今その再人間化が必要なのです。人間のための宗教、平和のための宗教の必要性を説いているSGI会長の意見に全く賛成です」(「聖教新聞」一九九一年三月三日付)

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