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日蓮大聖人・池田大作

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「辺境」が生みだす文化の活力  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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6  アイトマートフ 私は、その「取り替え」の試みに当惑しています。私たちの眼前で展開される、めくるめくような文明の進歩に合わせるために、文化の「取り替え」が必要であり、不可避だというのです。
 しかし、人間がどんなに超近代的な乗り物で旅をするようになっても、人間は、ある意味で「田舎者」でありつづけねばならない、すなわち、先祖たちが残してくれた行動原理や道徳律を守りつづけるべきだと思います。その最大の規範は、何をしてもかまわないというものではない、ということです。
 そこで、あなたのお考えをうかがいたいことがあります。現代人はいったい何を基準にして、「しても良いこと」「してはならないこと」を判断すべきなのでしょうか。そして、文化はそこでどのような役割を果たすのでしょうか。
 池田 いとも安直に文化の「取り替え」をしようとする傲慢さを告発する、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』の一節に、こうあります。ジバゴが、血気にはやる若きボルシェビキをたしなめる言葉です。
 「人生の改造ですって! そんなことを平気で論議できるのはですね、なるほど経験だけはいろいろと積んできたかもしれないが、一度として人生のなんたるかを知ったことのない連中、人生の息づかい、人生の魂を感じたことのない連中だけですよ。そういう連中は、存在というものを、まだ自分たちが手をかけてよりよきものに仕上げていない原材料のかたまり、これから加工すべき素材のように考えているんです。ところが人生は、かつて一度として材料であったり、物であったりしたためしはない。人生というものはですね、それ自体がたえずみずからを更新していくもの、永遠に自己改造をつづけていく根源なんですよ。それはたえずみずからの手で自分を改造し、改変していく、それは、ぼくらの愚鈍な理論などをはるかに超越したものなんです」(江川卓訳、新潮文庫)
 私は、このジバゴの、パステルナークの言葉に、あなたの言う「何をしてもかまわないというものではない」との異議申し立てに共通する、良心の告発を見ます。それは、自由と勝手気ままとを履き違えている近代人、現代人の思い上がりへの告発であります。
 文化とは本来、「何をしてもかまわない」といった勝手気ままを許さぬ規範としての働きを有していました。
 文化は、国家なり民族において、先人が残した価値の基盤を内に保存しており、統合の機軸となるものです。文をもって化する「文化」による統合は、権力や武力による上からの強権的な統合と違って、人々が平和裡に心を結びあう機軸となるものです。文化とは「生の共通の型」であり、そこには、善悪の判断の基準、行動の規範がはらまれており、さらにはアイデンティティーの基盤となるものです。
 総じて文化とは、その共同体に属している人の生活の規範であり、秩序づける力であります。いかなる反逆児といえども、その規範に反逆するという形でそれにとらわれており、そういう形でしか、ということはその文化をみずから生きるという形でしか、文化の進歩というものもありえないのです。
 そうした主体的なかかわりを忘れ、他人事のように文化の「取り替え」などと言っている人たちは、パステルナークの言うように、人生や文化を「材料」や「物」と見なす傲慢に堕しているのです。
7  アイトマートフ おっしゃるとおりです。「辺境」は、今後も、全人類的価値観を標榜する文化にとって、つねに生命の泉でありつづけることでしょう。
 ところで近年、私たちの中には、森羅万象の母であり、精神性の基盤である自然に帰ろうとする傾向性が生まれてきています。そのようなことを考えると近い将来に人類がメガロポリスという怪物と手を切ることを望むようになることも考えられますね。その時はどうなるでしょう?
8  池田 さあ、どうなるでしょう。都市化や近代化の行く末ということは、ここで論ずるには大きすぎるテーマです。ただ、私が、一つだけ提起しておきたいのは、それを考えるさいの視点です。すなわち、都市化や近代化を「反時代的」にとらえるのではなく「弁証法的」にとらえるべきだということです。
 近代文明の生みだした歪みがいかに大きいからといって、いきなりそれ以前、というよりもルソーやソローが半ば憧憬のまなざしを投げかけていたような世界に戻るという「反時代的」なアプローチは現実的ではありません。人口問題一つ取り上げてみても、おそらく少なくとも半分から三分の二ぐらいの人口にならなければならないのですから……。
 そうではなく、やはり近代文明の生んだ良き側面――貧困、飢餓、疾病などの側面への貢献は決して否定できない――を残しつつ、その歪みを是正するという「弁証法的」アプローチによるべきでしょう。ドイツの諺に言う「沐浴の水と一緒くたに子どもまで捨ててしまう」のは愚かです。私は、そうした方向への人類史の舵取りは、困難とはいえ、不可能ではないと信じております。
 ラスプーチン
 一九三七年―。農村派文学を代表。自然環境の保護に活動。
 スタインベック
 一九〇二年―六八年。アメリカの小説家。貧農の姿を社会批判を込めて描く。
 パステルナーク
 一八九〇年―一九六〇年。旧ソ連の詩人、小説家。ノーベル文学賞を辞退。
 ボルシェビキ
 多数派の意。レーニンに率いられ、一九一八年にロシア共産党と改称。過激な共産主義者の意も。
 ソロー
 一八一七年―六二年。アメリカの思想家、随筆家。作品に自然の中で生きる体験をもとにした思索による『森の生活』など。

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