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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 人間にとって科学とは  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

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12  科学の発達と精神の開発
 池田 この問題に付随して、科学の発達と人間精神の開発との関連性について申し上げれば、科学の発達は私たちに物質的な豊かさをもたらしましたが、反面、科学至上主義に走って、人間の精神世界とのバランスを崩したために、多くの問題を生みだしました。物質的な豊かさにだけ目を向けるのではなく、精神の世界を豊かに開発することが、重要な時代を迎えていると思うのです。
 ポーリング 科学の発達と人間精神の開発との関連性について、私はむしろ、それを科学の発達と倫理および道徳原理の開発との関係として解釈しなおしたいと思います。科学はその根底に、一つの基本的倫理の原理をもっていると思います。その原理とは、真理の追究であり、何が真理かを決定するための努力が可能であるということの認識にほかなりません。科学者たちにとって、この基本原理を受け入れることが肝要であり、実際、この原理は、若い科学者たちに教えられているのです。
 政治家の場合は、そうではありません。米国議会が議案の通過や法律の制定にあたっては、道徳的見地にしたがって決議し、具体策をとってもらいたい、と私は折にふれ述べてきました。
 しかし、むしろ論議はいつも、この具体策がアメリカのためになるのだろうか、世界のためでなく、アメリカのためにのみ役立つものか、というものです。自国の経済状況を向上させ、商品を売るという目的だけで、私たちは、他の諸国の飢えで苦しむ人々に援助を与えるべきでしょうか。そこで、もしわれわれが真理の探究という基本的科学原理と人間の苦悩を最小限におさえるという基本的倫理の原理にもとづいて行動するならば、それは偉大な一歩前進となるでしょう。
 池田 おっしゃるように、科学的真理の普遍的性格が、政治にかぎらず「理想」や「当為」の世界に受け入れられるとすれば、すばらしいことだと思います。そこに生まれるものは、人間的ヒューマニズムともいうべき、グローバリズム(世界主義)であり、ユニバーサリズム(普遍主義)であって、それこそ平和へのカギであることは、私も、つねに訴えてやまないところです。
 私は『ノー・モア・ウォー』をはじめ博士の著作に深い感銘を受けました。人間の精神の力を信ずる生き方は、仏教の思想ともあい通ずるものです。
 たとえば社会形態、政治形態は、時代とともに人類の欲する方向に行くべきであると思います。これまで、キリスト教やイスラム教、またマルクス主義や自由主義等が、その指導原理とされてきました。
 しかし、現状は、いずれの国でも深刻な行き詰まりをみせています。その意味で、それらの思想の指導性には一つの結論が出されたといってよいと思います。今や、これからの世界の指標・羅針盤となる確かな思想、哲理が模索されているといえるのではないでしょうか。
 その意味において、独善的な言い方になるかもしれませんが、多くの宗教や思想が限界を示しているなかで、東洋の高等宗教である仏教は、豊かな可能性をはらんでおり、将来、その卓越性が検証されていくにちがいないと思います。また現実に、平和の哲理として、仏教への期待が高まっているし、今後も一段と高まりゆくことを、私は確信しています。
 ポーリング 自由主義も決して完全なる思想ではありません。池田会長の言葉を真摯に受けとめたいと思います。
 思想、哲学や政治体制の異なる国家間の協調こそ、人類社会の発展に寄与していくのです。アメリカとソ連が友好と協力を進めていけば、両国のどちらも改善され、たがいの欠点をおぎないあう体制を引き出すことができるのです。
 池田 異なる体制を超えた国々の協力は、かならずや、良い方向へと弁証法的な発展をもたらし、平和社会の創造の源泉となると思います。ご意見に心から賛同します。
 ところで今日、科学、技術の急速な進歩とともに、科学者、技術者が特定の領域の専門家になってしまい、他の領域について正しく理解したり、みずからの専門領域の確かな位置づけをすることがむずかしくなってきているともいわれております。私は、科学者や技術者にとって、専門的な研究を深め、真理を探究し、また、その真理を技術として活用していくことは、人類の幸福にとって不可欠な要因であると考えております。
 と同時に、自己の研究分野以外の領域にも広く目を向け、人類総体としての科学、技術の進歩にも深い配慮をおこたらないでほしいと願っております。
 科学、技術を真に人類のために正しく発展させるために、科学者、技術者が感じるかもしれないジレンマ(板ばさみ)に対して、どのような解決の方法を見いだすべきだとお考えでしょうか。
 ポーリング この問題は、科学的知識の範囲にかかわる問題です。専門家といわれる人たちが、全体的な知識を必要とされているのは確かですが、これを得るには通常、たいへんな努力を必要とします。たとえば、化学の分野では今までに一千万種類以上の化合物がつくられ、化学者によって研究されてきました。一人の人間では一生かかっても把握できるものではありません。しかし運のよいことには、私の時代のうちに化学理論が発達し、これらの膨大な化合物の一つ一つについてくわしく知る必要がなくなったのです。すなわち、無機物や有機物の組成や属性を決定づけるいくつかの理論さえ学べば、化学全体に対するかなりの理解が得られるようになってきたのです。
 物理の分野はなおさらに基礎理論がものをいう分野です。現象世界に対する理解には物理学を学ばなければなりません。物理学をかなり理解したいと思うなら、電磁波や磁場の一般論について、また物性や質量とエネルギーについて知るための十分な全体的知識をもたなければなりません。そうすれば、物理学についてかなりの程度の理解力をそなえることができるのです。たとえば、超伝導性の測り方などといった技術的にこまかなことまで知らずとも物理全般に対する理解を得ることが可能なのです。具体的な計測方法は知らなくても、超伝導性とは何かとか、その他多くの物理現象への理解は得られるのです。
 生物学の分野においても同じです。一千万種類以上もの植物や動物のすべてについて、精通できる人などというのはおりません。甲虫の分類学に興味のある人なら、カブト虫についてはくわしく知っているでしょうが、蝶についてはそれほど知らないはずです。でも、生物全般の生態に関する理解はもっているものです。
 分子生物学は今、急速に発展している分野です。その基礎的な理論についてはよく知られるようになりましたが、学問そのものがまだ十分に統合化されていないので、生物の分野におけると同じように、分子生物学全般について知っていると言える人はいません。近い将来には、そういう人も出てくるだろうと思います。
 物理学、数学、化学、生物学、その他多くの分野にわたって詳細な経験を積むことのできる″ルネサンス人間″とでも言うべき人がいる可能性はつねにありますが、すべてのことをすみからすみまで完璧に知ることは不可能です。ですが、すべてのことを理解することはできます。
 しかし、それをするには膨大な労力が必要になり、そこまでしたくないという人もつねにいるのです。それでも、たとえば金属や合金の超伝導測定における専門家にはなれるのです。科学者などの感じるジレンマという問題については、私はそれほど心配しておりません。
 科学全般について私ほどはば広い知識をもっている学者はいないといわれますが、他にもいることはいるんです。
 ただ、そうした人の数は多くはないと思います。ほとんどの科学者の知識というのは限られているものです。にもかかわらず、科学者は多くのことを知ろうと努力しています。
 日本の科学者は、日本以外での科学の進展を知るために日本版の「サイエンテイフイック・アメリカン」を読んでいます。これは私も同じです。私も「サイエンテイフイック・アメリカン」やその他の自然や科学に関する雑誌を読んで宇宙論、天文学、物理学、化学、生物学等、科学全般の分野でどういったことが発見されつつあるのかを知るようにしています。
 超伝導性
 ある種の金属、合金等で、特定の温度以下に下げていくと電気抵抗がなくなってしまう性質がみられる。
13  道徳科学をめぐって
 池田 科学技術文明の現状には、ちょうど糸の切れた凧のように、人間の手から離れたというよりも、人間の手にあまるものになってしまうのではないかという危惧を、いつもぬぐいさることができません。
 博士が著書『一般化学』のなかで、世界が良くなるには技術的な進歩と道徳科学(Moral Science)の進歩が必要である、と述べておられるのはたいへん示唆的です。化学の専門書で「道徳科学」のことにふれられているのは異例のことだと思います。
 ポーリング 私の著書についてですが、『一般化学』は大学の教科書用に一九四七年に書いた本です。
 その冒頭に「科学は急速に進歩しており、この百年、さらには一千年の間に得られる科学的知識は膨大なものになるであろうから、少しでも長生きしたいものだ」という三百年前のベンジャミン・フランクリンの言葉をのせました。フランクリンはさらに、道徳科学の発達により人間はたがいに狼であることをやめ、人間性と呼ばれているものの真の意味を学ぶときがついにくるだろう、と述べています。
 この本を書いた当時、私は科学の分野における基礎倫理とでもいうべきものをまとめあげていました。
 科学者はどのように行動し、ふるまうべきであるかという道徳規範です。私のその化学の本の冒頭部分以外で道徳についてふれているところはないのですが、とにかくそのことについてふれておいたことは、いいことだったと思います。
 池田 大切な、そして先駆的な着眼点であると思います。ベンジャミン・フランクリンの言う「人間がたがいに狼である」状態が、三百年前にくらべて、さして是正されたように思えないのは、残念なことだからです。
 それに関連して、晩年の湯川秀樹博士が、医師の集会で、味わい深い講演をしていました。――物理学をやり、外的世界ばかり研究していても、年をとるにしたがい、自分とは何かに関心が深まってくる。外の世界を知ること自体が、自分を知ろうとすることと別ではなかった、と。
 そして、湯川博士は言います。
 「われわれが生きていくということは、自分一人が生きているんではなくて、ほかの人と一緒に生きている。しかもほかの人と自分とは別のものではなく、その間にはいろいろなつながりがあります」「やっぱり一番大事なつながりは愛情であろうと、ますます強く感じるようになってまいりました。(中略)せめて人に接していやな感じを与えない、人を楽しい気持にすることができたらと思います」(『外的世界と内的世界』岩波書店)
 平凡のようにみえて、まことに滋味と温情にあふれ、″いぶし銀″の年輪を伝えてあまりあります。
 こうした感情は、宗教で説く「愛」や「慈悲」にも深く通じており、このような共通感情がポーリング博士の提唱きれる「道徳科学」の土台にもなっていくのではないでしようか。

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