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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 わが人生の譜  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

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8  ポーリング 先ほどの論文で、偏見と独断を、私は拒否すると述べましたが、子どものときからそうしてきました。そして、実際、私が無神論者になったのは、かなり若い時だったと思います。神の存在を私は信じません。神の信仰に関連する問題――すべてをなすことができる万能の神とはいかなるものか。たとえば、宇宙創造についてなど――ですが、私はこの神の信仰にはいかなる利点も見いだすことができませんでした。しかし、私は闘争的無神論者ではありません。
 最近読んだ本のなかに、量子力学の考案者の一人であり、じつにすぐれた思想家であるイギリスの偉大な物理学者のポール・ディラックは、闘争的無神論者であったということが指摘されていました。さらに、ある物理学者は、ディラックのことを「彼は一つの宗教をもっている。それは無神論である」と言ったというのです。その物理学者は、神は存在せず、ディラックはその予言者であると言っております。
 私は無神論を広めるつもりはありません。たぶんディラックは、神が存在するか否かについての議論に興味があったのだと思います。その議論に、私は興味がありません。
 私は、人道主義者であるばかりでなく、ロサンゼルスのユニテリアン派教会の会員になっております。ユニテリアン派教会自身、キリスト教会だと称していません。実際、ユニテリアン説の信奉者たちは、二十年もしくは三十年前に万人救済派の信者といっしょになったのです。
 ユニテリアン派の信奉者は「ザ・クリスチャン・マンスリー」と呼ばれる雑誌を刊行していましたが、ユニテリアン派はキリスト教組織ではないという決定を二十五年か三十年前にくだしたのです。それであらゆる宗派の人々を受け入れており、雑誌の名前を「ユニテリアン・ユニバーサリスト・マンスリー」と変更しました。ユニテリアン派の教会は、もはやキリスト教会とは自称しておりませんが、教会とは称しております。
 そして、喜んで無神論者を会員として、受け入れているのです。世界をよりよくするために人は努力すべきだと信ずる人々は、ロサンゼルスのユニテリアン教会の会員になることができるのです。それで、妻と私は、会員になったのです。
 池田 思想史において、「偏見と独断」を拒否することは長い闘争でありました。これは、エピステーメ(英知)とドクサ(臆断)を対立させたギリシャ哲学以来の課題ともいえますが、とりわけ宗教は「偏見と独断」をさけるようつとめなければならないと思います。
 そうでなければ、ヒューマニズムを基礎づけ、補強することなどできませんし、かえって人間性を歪めてしまいます。二十一世紀は、もはや、そのような宗教を必要としないでしょう。
 宗教と科学的思考・知性との対立、また融合についてはトインビー博士とも何度も語りあいました。歴史的にみて、信仰と理性の問題が、先鋭な対立という様相を示してきたのは、教父哲学の創始者の一人テルトゥリアヌスの言葉として伝えられる「不合理なるがゆえに、われ信ず」に象徴されるように、ほぼヨーロッパのキリスト教文化圏にかぎられました。
 しかも、対立とはいっても、多くの場合、カトリシズムでいう「反対の一致」的な調和とバランスをたもっていました。それが宗教と科学というかたちをとって対決、闘争の様相を示すのは、ここ数百年のことでした。
 他の文明圏においては、イスラム、インド、中国等々、いずれも宗教と科学、信仰と理性との関係は、対立や闘争というよりも、原理的に融和と相補を志向していました。宗教とは哲学的思考をふくむ広い意味をもち、宗教も科学も、本来、人間生活のより良いいとなみのために必要な二つの要因です。両者の融和や相補は当然の帰結といえます。
 仏教においていえば、信仰と理性は対立するのではなく、知の働きをつくしぬいたところに、おのずとその限界が自覚され、言ってみれば、知性の自己批判というかたちで、信仰の世界が展開されています。人間は知性的に人間であるだけではなく、精神的にも、人間としての大きな跳躍をとげなければなりません。両者があいまって、さらに確固たるヒューマニズムが開花していくにちがいないからです。
 このような信仰のあり方からみれば、「宇宙的宗教性なるものは科学的研究の最強かつ最高の駆動力である」(『アインシュタイン選集』3、井上健。中村誠太郎編訳、共立出版)と述べたアインシュタインの世界の輪郭は、より鮮明になると私は考えております。
9  人間の幸福の条件
 池田 人間の幸福というのは、一般的に、健康であること、経済的に恵まれていること、社会的地位が安定している等、人によってさまざまな解釈があります。
 そして現代にあっては「心」の問題が大きな比重を占めております。自分の生きがいをどう充足させるかが人間の強い関心事となり、人間の幸福の条件を考えるうえで、″モノから心へ″というのは時代の流れといえましょう。
 ポーリング 真の幸福は、生きていること自体に満足感をもつことにあると思います。真の幸福を得るために何が必要なのか。あらゆる人が、幸せになりうる世界を私たちはつくるべきなのです。幸福が意味するものは、その人にとっての十分な食物、衣類、住居、そして教育をもつことであり、また、これは最も重要なことですが、自分が好んですることができる仕事につくことなのです。
 そして、大切なことは、男女を問わず、生き方がその人にとって、満足すべきものでなければなりません。
 池田 たしかにそれはありますね。
 ポーリング 私はどちらかといえば、妻が家事をいとなむという考えが好きですし、家事は大事な労働だと思います。女性が幸せになるために、銀行の副頭取になったり、そのような仕事につく必要はないと思います。
 とくに、多くの婦人たちは家事をいとなみ、夫や子どもたちの世話をするほうが、机に座ってタイプライターで手紙を打ったり、報告書を作成したり、また他人所有のコンピューターに何かを打ち込んだりすることより、幸せであるように私には見えます。社会の型にはまった生活よりは、婦人にとって、世帯の中心として家庭のなかで役割を果たしていくほうが、より満足を感ずるものになるだろうと思います。この点において、私の考えは保守的です。だれもが幸せになりうる世界を見たいものです。
 もちろん、幸福は、世界の不思議を楽しんだり、旅行のための十分な余暇とお金をもったり、その他、自分が楽しく過ごせる機会をもつこともその一つです。若者にとってたいへん重要なことは、良きパートナーを見つけ、人生の早い時期に結婚し、人口過剰の問題があるので、子どもはそんなに多くなく、一人か二人もち、人生をともに楽しみ、生涯をともに暮らすことだ、と私は信じます。
 池田 「だれもが幸せになりうる世界を見たい」とのお言葉に、人類の平和と進歩を願い、行動されてきた博士の心情を知る思いがします。
 仏典には、この現実の世界を「人々が人生を楽しみながら自在に生きていくところである」と説き、人が生まれてきた目的は「楽しみにきたのであって苦しむためではない」と教えています。
 私の恩師は悲惨と不幸をこの社会からなくそうとして、仏法を庶民の真っただ中で弘め、庶民の幸福のために一生をささげた人でした。いわゆる過去の宗教の指導者とはまったくスケールの違う人でした。しかも、よく博士と同じ信条を語っていました。もし恩師と博士の邂逅かいこうがあったならば、人類ヘ偉大な光を与える「科学」と「宗教」の対話となったのでないかと私は思います。
 博士の言われる「真の幸福は、生きていること自体に満足感をもつことにある」とは、仏法の幸福観に通じていくものです。
 女性の幸福についても、盲点になりがちな点を指摘されていると思います。かつて日本のある哲学者が、倫理学の本に、なぜ「幸福」の問題があつかわれていないのか、との疑問を呈したことがありました。
 いくら恵まれた環境であっても真剣に人生を考え、自分を磨くことを忘れては、何を追いかけてもたしかな幸福感は得られない。そして真実の幸福を願うならば、みずからの幸福だけでなく、他の人の幸福のために働くことを忘れてはならないと思います。

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