Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 二十世紀とともに  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

前後
7  池田 ダンテの『神曲』、ダーウィンの『種の起原』等は私もよく読みました。とくにダンテは″どうしてもわかりたい″との一心で、何回も読み返した懐かしい思い出があります。一九八一年六月には、フィレンツェにあるダンテの「記念の館」を訪問しました。彼の作品から私も多くのことを学びました。啓示宗教に対する博士の考え方はよくわかります。
 ポーリング また数人の偉大な師が、私の科学者としての生涯に決定的な影響をおよばしました。たとえば、カリフォルニア工科大学のロスコー・ギルキー・ディッキンソンやリチャード・ケーイス・トルマンがそうです。人生のより広範な面においては、私の最大の師は妻であったと考えています。
 科学的な面で私に最も強い印象を与えたと思う人物は、ディッキンソンでしょう。当時、彼は私より十歳年上で、カリフォルニア工科大学で博士号を最初に取得した人でした。
 彼は、結晶によるエックス線回折の研究をしていました。私は一九二二年九月にカリフォルニア工科大学に移りましたが、まもなく、彼とともに研究を始めるようになりました。
 ディッキンソンは思慮深く、きちょうめんな人でした。彼は私に、実験とその結果についての考え方、さらにそこでどのような仮説が出されたかを知るために、そして、引き出された結論がいかに信頼性のあるものかを知るために、実験をどう分析したらよいかについて話してくれました。そのうえ、もちろん、実験上の方法についてもいろいろ教えてくれたのです。
 トルマン教授は化学ばかりでなく、物理学や数学にもかなりの知識をもつすぐれた人物でした。私は、科学的発見や研究、そして、科学自体の本質について彼から多くのことを学びました。
 そして、年月がたち、国外にも行きました。ミュンヘンでは、ミュンヘン大学のアーノルド・サマーフェルド教授と一九二六年から一九二七年の一年余りいっしょに研究をし、さらに一九二〇年にふたたびミュンヘンに戻り、三、四カ月、ともに研究をしました。
 彼の学生への教え方に、非常に深い感銘を受けました。すべてに徹した、有能な人物でしたので、彼からも多くのことを学びました。
 池田 私は、博士が四人の師のなかに、平和に尽力された奥さまをあげられたことに感銘いたしました。
 三人の科学者の方も、自分が指導した人のなかにポーリング博士のような傑出した方がいらして誇りだったのではないでしょうか。
 私の場合、仏法者としてこの平和運動に挺身することを決定づけた点で、戸田第二代会長の存在がすべてでした。私にとって人生の師はそれほど大きな存在でした。
 太平洋戦争中、私の家では四人の兄が出征し、長兄はビルマ戦線で戦死しました。兄の死を知ったときの母の悲しみの姿は生涯、忘れることはできません。当時、結核で苦しんでいた私は、国家主義と戦争に対する、なんともいえない怒りと憎しみが心に焼きつきました。
 その後、十九歳で戸田第二代会長と邂逅かいこうし、創価学会が平和思想である仏法を根幹としていること、また戦時中、横暴な軍部権力と戦い、牧口常三郎初代会長が獄死し、さらに戸田会長も入獄したことを知りました。仏法を基調とする平和への道こそ、恒久平和へのまちがいない道であると確信し、この道を歩むことになりました。
8  忘れえぬ人々
 池田 ところで平和問題については、アルバート・シュヴァイツアー博士とも語りあわれたそうですが。
 ポーリング シュヴァイツアー博士は晩年(一九五九年六月)、ガボンのランバレーネにある診療所に、私と妻を招待してくれましたが、博士に対しても強い印象が残っております。約二週間をともに過ごしました。
 到着後、二、三日して、博士が夕食のあとに私を招いてくれたのが始まりで、私は毎晩、博士と約一時間にわたって話ができるようになりました。
 池田 シュヴァイツアー博士も、核実験に強く反対しましたね。
 ポーリング もつぱら話題は政治とか核実験、そして核実験から発生する放射能などについてのものでした。私が記憶しているかぎりでは、博士と私はすべての点で意見が一致しました。
 シュヴァイツアー博士は、大気圏核実験禁止の請願書に署名してくれました。たしか全部で三回署名してくれたと思います。請願書を目にするたびに、それに署名し、私に郵送してくれたのです。
 池田 シュヴァイツアー博士について、先ごろ(一九八七年二月、私がお会いしたカリフォルニア大学ロサンゼルス校医学部のノーマン・カズンズ教授は、「博士の仕事に取り組む姿勢には、自分の精神と肉体を生かして使おうという奔流のような内部の要求があった。そして博士のユーモアは重労働の病院の部下たちを励まし、自分もその雰囲気のなかで新しい活力をつくりだしていった」と紹介されていました。
 博士の足跡についての評価は分かれるにしても、五十年以上にわたってアフリカで医療にあたり、九十歳まで長寿をまっとうしたその人生からは、仕事をとおして自分の可能性を生かしきっていった強靭な精神力がうかがえます。
 ポーリング シュヴァイツアー博士は私の妻とも話をしましたが、それは夕食の席だけでした。私との毎晩の語らいには妻を呼びませんでした。
 アインシュタイン博士の場合はいつも妻を招きましたから、この点ではシュヴァイツァー博士のほうが古風な考え方をもっていたといえるかもしれません。しかし、そんな古風なおもむきを私はむしろ好ましく思ったものです。
 シュヴァイツアー博士は、私に数日間、スクラップブックを貸してくれました。そこには世界情勢に関する新聞の切り抜きがはってあり、博士自身のコメントが書きこまれてありました。
 こうして個人的にシュヴァイツァー博士と接することができ、私が大半の人々と同様にいだいていた博士に対する高い評価が実際に確認された思いがしました。博士は黒人の健康増進のために献身しておられました。
 また、博士は黒人が自分と対等でないと思っていたことも明らかです。博士は、黒人の教育向上や生活様式を変えるための努力はほとんどしませんでした。
 池田 その他、個人的に交流した方で、とくに印象に残っている人物、忘れられない人はいますか。
 ポーリング もちろん、バートランド・ラッセルもたいへんに尊敬しておりました。
 科学について、あまり多くは彼と論じることはできませんでしたが‥‥。ラッセルは化学については知らず、彼の科学における知識は、物理学や化学より、むしろ数学や哲学に関するものが主であり、彼のこの姿勢を私は好ましく思いました。
 他にも多くの知人がおります。ソ連、ドイツ、フランスなどの国々の科学者たちですが、私が尊敬する人々、私になんらかの影響を与えてくれた人々の数は、あまりにも多すぎるために、その人々の名前をすべてあげることはできないほどです。
 池田 博士の人生の豊かさを物語っていますね。偉大な友人をもつことは偉大な歴史となり、偉大な思い出となる。それは人間としての偉大な幸福であるにちがいありません。
9  創造と活動の源泉
 ポーリング 研究活動については、かなり早い時期から、自分は化学の分野では良い仕事をしていると自認しておりました。私が三十六歳でカリフオルニア工科大学のゲイツ・アンド・クレリン化学研究所の所長と化学・化学工学科の主任教授に就任することは、私自身、妥当であると思いました。私が化学に重要な貢献をしていることは、私自身にも、また他の人々にも、明らかでした。
 私がつねに心がけていたことは、学生たちや同僚といっしょに、宇宙の性質をより多く知るうえで最大の効果をあげるように、研究をつづけなければならないということであったと思います。
 また化学・化学工学科で決定すべき事柄を自分一人で決定しようとせずに、同僚の教授の参画を求めるべきであると考えておりました。私がつらぬいた方針は、権限を同僚の教授に委任することと、教授たちが委任された権限を行使することにいっさい口をはさまないということでした。私のほうからこうした決定をしたために、私は自由に自分の時間とエネルギーを、科学上の諸問題の解決にそそぐことができたと思います。
 池田 さすがです。人間関係へのすばらしい配慮と寛容さが感じとれます。
 次に、二十一世紀へのメッセージを。そして、青年に対する期待が何かあれば‥‥。
 ポーリング 現在、人類はかつてない画期的な歴史を開こうとしています。戦火のない世界――大戦争はもちろん、小さな争いにいたるまで、ありとあらゆる戦乱と、その脅威を根絶する可能性を、現代はもとうとしています。その時代を生きることが、いかにすばらしく、幸せなことであるか。そのことを、私は人類に訴えたい。
 また、民衆を苦しめる戦争を防止するのは、私たち一人一人の課題です。ほかのだれの責任でもない。ですから、とりわけ青年に対して、″地上から戦争を追放することを自身の責務とせよ″と呼びかけたい。
 池田 感銘深い言葉です。人類の将来に対する大いなる提言と思います。
 さて、博士がビタミンCという新たな分野の研究を始められたのは、六十歳を過ぎてからだとうかがっております。今日にいたるまでいわば超人的な活躍をされている、その創造と活動の意欲の源泉はなんでしょうか。
 ポーリング 私の興味と科学的研究の方向性について、約十年ごとに重要な変化がありました。一九三〇年ごろ、私は鉱物や他の無機化合物の研究から有機分子の研究へと切りかえました。
 三五年ごろ、私は人体に存在するタンパク質やその他の高分子の構造に興味をもち始めました。そして三六年には、抗体と血清反応の性質に関する問題の研究を開始しました。
 四五年、私は分子病があるのではないかとの発想から、鎌状赤血球貧血を分子病とみなす理論を構築しました。
 六五年、原子核の性質の問題について十年ほど研究した結果、原子核に関する新しい理論をつくりだしました。
 同じく六五年ごろにはビタミンに好奇心をそそられ、六八年には今日、分子矯正医学(orthomolecular emdicine)と呼ばれている学問の基本原理を樹立したのです。
 ここ十年以上にわたって、私は宇宙の性質について、少なくとも、いわゆる物理的宇宙のあらゆる面についての膨大な知識体系を構築してきました。たくさんの雑誌や本を読み、そのなかでなにかの理由で私を驚かせたり、私の興味を引く説明に出あうと、それが私の描いている宇宙像におさまるかどうかを追究します。
 収まれば、私は満足です。もしあてはまらない場合は、まずその説明が間違っているのかどうか、もし正しければ、その説明が宇宙の構造についてなにか新しい情報を得る基盤となりうるのかどうかを検討します。こうした方法で思索してきた結果、私はいくつかの新しい概念を生みだすことができたのです。
 宇宙の性質という総合的な問題に関連する個々の問題を解決しようと研究をつづけているのは、私の好奇心のせいであると思います。
 池田 今、「十年ごとに変化があった」と言われましたが、私も大組織の責任ある長として、十年を単位に何らかの目標をもって生きてきました。
 それはそれとして好奇心とは、ある意味で心の若さの異名といえます。優れた仕事をなしとげた人は、深い年輪とともに青年のような旺盛な好奇心と豊かな感受性をもちつづけているものです。
 お話をうかがっていて、私はかつて対談した世界的な医学者ルネ・デュボス博士が、「大人にみずみずしい感受性をとりもどす適切な技術が開発されるなら、青春の泉という古い昔の夢は新しく豊かな意味をもつ」(『人間であるために』野島徳吉・遠藤三喜子訳、紀伊国屋書店)と論じていたことを思い起こしました。二十一世紀とは、なによりも人間精神の創造性が求められる時代ではないでしょうか。
 そこで、博士が言われた宇宙像ということですが、これについては二十世紀の大化学者である博士に、ぜひあとでうかがいたいと思っております。

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