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日蓮大聖人・池田大作

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3 ヒューマニズムの本質と形…  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
15  以上にあげたヒューマニズムの根本思想の変種のなかでは、マルキシズムだけが政治的世論の意識を獲得し、幅広い民衆運動にまで到達しました。その他は、創始者とその同志の小さなサークルのなかにとどまっただけでした。その意味では、マルキシズムが、まず、あなたの言われる意味の西洋ヒューマニズムを代表することになるわけですが、じつのところ、それは、西洋ヒューマニズムの反宗教的・唯物論的側面を代表しているにすぎません。マルキシズムは経済的物質主義に対してヒューマニズムを回復しようとしているため、経済的枠組みとしては形式的であっても利己主義と搾取の自覚としては物質的ではないのです。
 さらに、分析哲学への転換をも考慮しようとすれば、この種のヒューマニズムはまったく非政治的な実証主義と一緒に考察する必要があります。実証主義は、感性に対する誇りという点で、フォイエルバッハのヒューマニズムに近いものをもっています。それ以外の他の三つのヒューマニズムは、実証主義に対し批判的立場を押しとおすかたちになります。なかでもマルクス主義のヒューマニズムの立場からすれば、実証主義は小市民的に疎外された思惟態度の典型とみなされます。
 そこで、あなたの言われる意味の西洋ヒューマニズムは、ヒューマニズム的原理の多様な体系化に付された暗号コードということになります。つまり、ヒューマニズムとは異質な要素をふくんでいる一般的名称なのです。
16  池田 西洋ヒューマニズムが思想家によっていかなるニュアンスをもっており、それがいかなる欠陥をもっていたかということも、大事な問題であろうと思います。ただ私が提起したいのは、西洋人全般にとってヒューマニズムという時代思潮が、いかなるかかわりのなかで受けいれられ発展させられ、実践化されたか――また、その実践化のなかでどのような結果が生じたか、という問題です。
 ヒューマニズムそのものを内容的に研究しようとする人にとっては、フォイエルバッハのヒューマニズムとハイデッガーのヒューマニズムは大きなちがいをもっていますが、現実のヨーロッパ社会の一般庶民はヒューマニズムを種々の抑圧からの人間解放として単純にとらえ、自己のおかれた状況のなかで、これに実践的意味合いを付してきたのではないでしょうか。そして、その結果は、大部分の人にとっては、これはキリスト教的倫理からの解放であったり、貧困の抑圧からの解放であったりしたわけです。
 その場合、キリスト教は、その教え自体のなかにはヒューマニズム的要素を基本的にふくんでいたにもかかわらず、教会としてヨーロッパ社会に君臨し人々を制度的・ドグマ的に支配する立場に立って以降は、むしろアンチ・ヒューマニズムの側面を強くもつようになってしまいました。近世・近代のヨーロッパ・ヒューマニズム運動において、キリスト教が人間解放の戦いの目標とされたのは、このためにほかなりません。
 その点、東洋における仏教は、そうした制度的側面でも教義的な面でも、人間性を束縛したり、抑圧したりした例はきわめて少ないということを申し上げたのですが、この問題はまたのちに語りあうことにしたいと思います。
17  シラー
 (一八六四年―一九三七年)イギリスのプラグマティズム(実用主義)を代表する哲学者。
 ロジャーズ
 (一九〇二年―八七年)アメリカの心理学者。治療者中心のカウンセリングを提唱。
 ハイデッガー
 (一八八九年―一九七六年)ヤスパースとならぶドイツ実存哲学の代表的存在。基礎的存在論という独自の実存哲学を主張した。主著『存在と時間』。
 “超越論的自己知”
 デルボラフ教授の造語で、人間が世界知を知っているという「二重の知」(精神的存在)によって、世界を超越していることを意味する。
 世界を“所与性”の様態から“課題性”の様態へ 世界が人間に対してすでにあたえられたものとして存在する事態から、世界から人間に課題を投げかけられているという事態へ、という意味。
 「それ」と「汝」という性質のあいだの相違
 ユダヤ人の哲学者マルチン・ブーバー(一八七八年―一九六五年)の概念で、「世界」を“それ”という三人称で語るか、“汝”という二人称で呼びかけるか、その性質のあいだの相違のこと。
 フォイエルバッハ
 (一八〇四年―七二年)ドイツの哲学者。もっとも急進的なヘーゲル左派の唯物論者。若きマルクス、エンゲルスに強い影響をあたえた。
 サルトル
 (一九〇五年―八〇年)フランスの実存主義哲学者、作家。戦後文学のリーダー的存在で、文学者の政治参加を訴え、みずからも行動した。

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