Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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4 ドイツ帝国と日本  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
5  オーストリア・ハンガリー君主国は多民族国家であったため、他の民族との交流という点では、豊富な経験を背景に「こつ」を心得ていました。そこで、不幸な結末にもかかわらず、ずっと理性的で、円満な外交政策をとっています。だからこそ、民族的偏見でわずらわされることもほとんどなかったのです。
 ただ、私自身の立場から申し上げておくべきことは、オーストリア人もドイツ人と同じように、狂信的国粋主義とまったく無縁ではないということです。オーストリアのあちこちで、人々が急速にナチズムに身を投じていった事実がなによりの証拠でしょう。
 幸いにも、当時の日独間の政治外交関係には、「黄禍」という言葉の悪影響は見られませんでした。今日、われわれ両国民のあいだには、個人レベルでもまったく偏見がないことは、長期にわたって日本で講師などをした私の弟子や同僚も語っているところです。彼らは日本人女性と結婚し、日本で家庭を築いたり、あるいは、ドイツヘ一緒に帰ってきております。
6  アーヘン
 フランス語名はエクス・ラ・シャペル。ドイツ中西部にあり、オランダ、ベルギー国境近くの歴史的都市。カロリング・ルネサンスの中心地。
 カール大帝
 (七四二年―八一四年)フランス語名でシャルルマーニュ皇帝。フランク王。西ローマ皇帝〈在位七六八年―八一四年〉。神聖ローマ帝国成立の基礎をつくる。都をアーヘンに定め、カロリング・ルネサンスを推進。
 クーデンホーフ・カレルギー
 (ハインリッヒ、一八五九年―一九〇六年)オーストリア人。外交官。
 リヒアルト・クーデンホーフ・カレルギー
 (一八九四年―一九七二年)ヨーロッパ統合運動の提唱者、哲学博士。旧ソ連とイギリスをのぞく全ヨーロッパ諸国の関税同盟、統一経済市場の創設を説き、欧州共同体(EC)の基礎をつくった。著書に『パン・ヨーロッパ』。対談 一九七〇年に来日中のカレルギー博士と三回にわたり対談。「サンケイ新聞」に連載された後、単行本『文明・西と東』と題して発刊(七二年)。
 シーザー
 (前一〇〇年ころ―前四四年)カエサル。古代ローマの政治家、将軍。終身独裁官になるが暗殺された。『ガリア戦記』『内乱記』を著す。
 ナポレオン
 (一七六九年―一八二一年)フランス皇帝〈在位一八〇四年―一五年〉。ナポレオン戦争をおこしたがヨーロッパに覇権を築くことに失敗。戦争で百万人もの兵士を失ったといわれる。ナポレオン法典を編さん。
 ヴィルヘルム二世
 (一八五九年―一九四一年)プロシャ王、ドイツ皇帝〈在位一八八八年―一九一八年〉。世界政策を積極的に展開し宰相ビスマルクを罷免し、一八九〇年以後、親政をおこない独裁的に。

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