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日蓮大聖人・池田大作

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天台智顗と三大部

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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5  法華玄義と五重玄
 松本 続いて『法華玄義』に移っていきたいと思います。まず『玄義』の場合、いつ、どこで説かれたか、明らかではありません。章安大師の『法華玄義』の私記縁起にも「次に江陵にありて玄義を奉蒙す」(大正三十三巻681㌻)と記されているのみで、どこの寺で、いつ講説されたかは示されていない。
 ただ、後に戒応がつくった年譜には、これを開皇十三年(五九三年)、智顗五十六歳のこととし、また『仏祖統記』には「開皇十三年夏四月より玉泉に於て法華玄義を説く」(大正四十九巻183㌻)とあります。そこで一般には、これを開皇十三年、つまり『止観』が説かれる前年に、荊州の玉泉寺において『妙法蓮華経』の経題釈がなされたものとしているわけです。
 野崎 しかし、隋の文帝から「玉泉寺」の寺号が下されたのが、開皇十三年の七月二十三日であるために、それ以前に『玄義』が講じられたとすれば、玉泉寺ではなく、仮に玉泉寺でおこなわれたとすれば、秋か冬に講説されたものと推測する向きもありますね。むろん、これはさほど重要なことではありませんが……。
 池田 やはり『法華玄義』で重要なのは、その内容ですね。ここで天台大師は『妙法蓮華経』の経題を「名・体・宗・用・教」の五重玄をもって解釈し、その独自な法華経観を展開した。この独創的ともいうべき理論を布石として、いよいよ翌年には、その出世の本懐である「円頓止観」、後の『摩訶止観』が説かれるわけです。
 したがって『玄義』を論ずるには、いわゆる天台の五重玄を中心に、みておく必要がある。
 松本 『法華玄義』では、まず(1)釈名(2)辯体(3)明宗(4)論用(5)判教の五章を挙げ、この五章を釈するのに通別あり、として「通は則ち七番共解、別は則ち五重各説なり」としています。ここに七番共解というのは(1)標章(2)引證(3)生起(4)開合(5)料簡(6)観心(7)会異で、通じて五重玄の概要を述べ、次に五重玄義を別釈していくわけです。
 野崎 第一釈名章では『妙法蓮華経』の五字について「妙法」は法、「蓮華」は譬、「経」は通名とし、とくに妙法の二字の釈が中心ですね。――「法」について智顗は、これを心・仏・衆生の三法とし、この三法は無差別であって十界互具百界千如、一即一切なれば一実相であるとする。すなわち、一切の法は皆、平等円融なることを明かしているわけです。
 池田 ここで大事なことは、この『玄義』においては百界千如までで、まだ一念三千の法門は明かされていないということです。天台の法門は、教相と観心の二門が鳥の両翼、車の両輪のごとき関係にあるが、三大部では『玄義』と『文句』が教相、それに対して『止観』が観心であるといわれる。その決定的な違いは『止観』にいたって初めて「一念三千」が明かされるからですね。
 松本 次に「妙」の釈名では、通別の二釈が設けられ、通釈では相待妙と絶待妙とを開いて法華の絶妙なることが明かされる。また別釈では、本迹二門に各十種の妙義があるとして、いわゆる迹門の十妙、本門の十妙が説かれています。
 詳しくは略しますが、このあと「蓮華」については当体蓮華と譬喩蓮華が明かされ、さらに「経」の一字にも有翻と無翻の二義が挙げられ、釈名章を終わっています。
 野崎 続いて第二辯体章では「諸法実相」をもって一経の体とし、一切の万法は三諦円融の当体であることが示されています。
 第三明宗章では、一仏乗、師弟の因果をもって経の妙宗なることが明かされ、第四論用章では、断疑生信、増道損生をもって経の力用とされ、第五判教章では、南三北七の異解を挙げ、それを破折した後、『法華経』こそ超八醍醐の経なることが明かされているわけです。
 池田 天台大師によれば、あらゆる経文は五重玄に約さなければ、その玄意を知ることはできないという。
 その依文として、彼は『妙法蓮華経』の如来神力品第二十一の結要付嘱の文、すなわち「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法」これが名玄義であり、「如来の一切の自在の神力」これが用玄義、「如来の一切の秘要の蔵」とれが体玄義、「如来の一切の甚深の事」これが宗玄義、「皆此の経に於いて宣示顕説す」とある経が教玄義、として挙げられている。
 この五重玄をもって『法華経』を講じたところ、当時の仏教界に大きな波紋を呼んで、たとえば金陵の仏教界の指導者でも、天台大師の弟子となった者が多かった。それほど彼の『法華経』の講義は、歴史に残る名講義であったわけです。
6  摩訶止観と一念三千
 松本 では次に、天台三大部のうち最も重要な法門である『摩訶止観』に移りたいと思います。
 これは、いつ、どこで説かれたかは、巻第一の冒頭に明瞭です。いわく「止観の明静なることは前代未だ聞かず。智者、大陪の開皇十四年四月二十六日より、荊州の玉泉寺に於て、一夏に敷揚し、二時に慈■す」(大正四十六巻1㌻)と。
 ここに開皇十四年というのは、西暦では五九四年、智顗五十七歳、灌頂三十四歳のときにあたります。章安大師は一夏九旬、すなわち三カ月の夏安居中、終始これを聴講し、その聴記本を再三再四修治して、天台大師の死後に完成したのが、現行の『摩訶止観』十巻となったわけです。
 野崎 荊州の玉泉寺というのは、山色は青藍にけむり、白く清冽な名水を出す玉泉寺にちなんで名づけられたようです。そこに「荊州の法集に於て聴衆一千余僧、禅を学ぶ三百」(大正四十六巻809㌻)と智顗の遺書に記されているほどの聴衆が集まり、当時としては相当な盛況のうちに、この『止観』の講説がおこなわれたものと思われます。
 松本 ここに「禅を学ぶ三百」とあり、また最近では『摩訶止観』や『小止観』を坐禅の書のように受け取る向きがありますが、天台の″止観″の場合、現代の禅ブームなどとは根本的に違うものがあると思いますが……。
 池田 まったく違うものですね。その理由については、すでに「11 南岳慧思と法華経」のところで述べましたが、とくに智顗の場合、この『摩訶止観』を説くころには、つとめて″禅″の一字を代えて″止観″の語を用いていることからも明らかであると思う。
 第一、中国における禅宗の初祖とされる達磨について、智顗はほとんど言及していない。インドから達磨が来たのは六世紀の初頭とされているが、おなじ六世紀の中葉から後半にかけて活躍した智顗は、いわゆる達磨の禅など眼中になかったものと思われます。
 第二に、天台大師のが″止観″というのは、止は念を法界に繋げること、観は念を法界と一つにすることであって、あくまで己心に十法界を観じていくことです。したがって、坐禅のように単なる修行法としであるのではなく、あくまで『法華経』によって諸法実相、一念三千の理を観じていくものです。
 野崎 御書に「若し此の止観・法華経に依らずといわば天台の止観・教外別伝の達磨の天魔の邪法に同ぜん」と仰せです。いわゆる達磨の禅法と、天台の止観との決定的な相違は、まさに『法華経』に依っているか否かの違いによるわけですね。
 池田 そうです。今まで述べてきたことからも明らかなように、天台大師は『法華経』の文によって一心三観・一念三千の法門を説いていった。それが円融三諦の円頓止観であり、「摩訶止観」と名づけられるものです。
 『摩訶止観』の正説は十章から成り、それを日蓮大聖人が「十章抄」において明確に要約なされている。その御聖訓を拝読すれば、天台の止観と法華経の関係は一目瞭然たるものがあります。有名な御文ですが、そこを拝読してみたらどうだろうか。
 松本 「止観に十章あり大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり、前六重は修多羅に依ると申して大意より方便までの六重は先四巻に限る、これは妙解迹門の心をのべたり、今妙解に依つて以て正行を立つと申すは第七の正観・十境・十乗の観法本門の心なり、一念三千此れよりはじまる、一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず何にいわんや爾前に分へたる事なり、一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る・爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし」と。
 池田 いま拝した「第七の正観・十境・十乗の観法」の第一は、観不思議境と名づけられ、そのなかに念三千の法門が説かれる。それが、巻数でいえば『摩訶止観』第五の上にある次の文です。
 「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば己みなん。介爾も心有れば、即ち三千を具す。(中略)所以に称して不可思議境と為す。意此に在り」(大正四十六巻54㌻)と。
 これこそ、われわれの一念の心に三千の諸法が具足され、空仮中の同融三諦にして不思議の妙境を観ずること、すなわち天台の円頓止観の実相です。この止観を、章安大師は「己心中所行の法門」と呼ぶわけです。
 しかし、これは引用の文に明らかなように、あくまで一念三千を理論的に展開した法門です。それに対し、事の一念三千の法門は、日蓮大聖人が「観心本尊抄」において、この文を冒頭に据えて展開なされている。その究極の当体こそ、われわれの信仰の対境たる三大秘法総在の御本尊なのです。
 ともあれ天台大師は、年七歳にして『法華経』普門品を聴いて以来、五十七歳にして『摩訶止観』を説くまでの五十年間というもの『法華経』の研鎖を怠つてはいない。幼少のころから『法華経』とともに育ち、学び、そして仏法の奥底を究め、中国の大地に法華の種子を植えていった。ときに戦乱を逃れて南へ下り、北へ行き、そして南岳にまで足を踏み入れたけれども、その後の行動の足跡は、そのまま法華弘通の遠征でもあったのです。

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