Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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3 鳩摩羅什とその訳業  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
4  長安入りまで
 野崎 鳩摩羅什が長安に入ったのは、伝によれば弘始三年十二月二十日、西暦でいえば四〇一年ということになります。彼の生年を『広弘明集』の説によるとすれば、このとき五十七歳、また『高僧伝』等から推定した説によれば、五十一歳ということになります。最近の研究では、後者の説が有力になっていますが……。
 池田 五十にして天命を知る、といわれるように、たしかに五十代というのは、人生の総仕上げの時期ともいえる。だいたい独創的なものは、二十代から三十代にかけてあらわれてくるけれども、それを四十代に発展させていって、いよいよ五十代で仕上げをするといってよいでしょう。
 そのような人間の生涯の図式からしでも、羅什は最も気力の充実した、一番いい時代に長安入りしているといえます。これは大事な点ですね。
 松本 鳩摩羅什は長安入りする以前に、すでに三十七歳ごろ――『出三蔵記集』によれば三十八歳ですが――漢土、つまり中国の土を踏んでいます。これは、前秦の王・苻堅ふけんが羅什を得ょうとして、驍騎ぎょうき将軍・呂光を西域に派遣し、亀茲国を攻めて羅什を生け捕りにしたからです。
 野崎 いわゆる五胡十六国の時代にあって、とくに仏教が盛んであったのは、後趙、前秦、後秦、北涼などが有名ですが、なかでも前秦の苻堅は興味ぶかい人物ですね。
 彼は羅什を生け捕りにしようとした以前にも、当時、襄陽(湖北省)にあって名声を博していた釈道安を得るために、十万の大軍を派遣しています。これは西暦三七九年のことですが、その作戦は見事に成功し、道安のみならず彼と親交を結んでいた文筆家の習鑿歯しゅうさくしも得て、長安に迎えています。以後、道安は五重寺に住して七年間、数千人にも及ぶ僧徒を指導したといわれます。
 松本 その道安門下のなかから、後に羅什の訳場に列なる俊英も数多く輩出されたわけですね。その意味からすれば、釈道安は羅什の名訳を生む下地を作った人物ともいえると思います。
 事実、前秦の王・苻堅が西域に呂光将軍を派遣したのも、道安から羅什の名声を聞いたからですね。それが西暦でいえば、三八二年か三八三年のことです。しかし、まもなく苻堅は死んでしまい、帰途その報を聞いた呂白光は、河西の涼州地方に独立し、後涼国を建てました。そのために以後十六年間、羅什は後涼の都、姑臧(甘粛省武威市)にとどまった、とされています。
 池田 その間、羅什がどのような生活をしていたか、あまり記録には明らかでないので、想像してみる以外にないね。ただ、断片的に伝えられているところによれば、彼は牛や悪馬も乗りこなし、呂光の軍の参謀、いわゆる軍師のような役目をしていますね。おそらく、彼にとって生涯で最も辛い時期であったと思う。
 野崎 この呂光将軍というのは、それほど立派な人物ではなかったようです。仏教に対する理解など、もちろんありませんから、手をかえ品をかえて羅什を誘惑し、不飲酒戒を破らせ、亀茲王女を強要して羅什に女犯の戒を犯させてしまう。戦にあっても、羅什の献策を用いたときには勝利するが、羅什の意見を用いることも少なく、部下に反乱されることがたびたびであったといわれています。
 たぶん羅什にとって、この三十代から四十代にかけての時代は、たいへんな苦労の連続であったと思われる。というのは、この中国の辺境地帯にあった十六年間というものは、彼も弟子に多くを語りたがらなかったのではないだろうか。そのために、後の鳩摩羅什伝にもこの期間が空白のままに残されたのでしょう。
 これは私の推測だけれども、しかし羅什はその最も困難な時代にあって、いつも東方の空を仰ぎつつ、やがて漢文化の中心である長安に入って、インドに生まれた大乗仏教の正統な流れを、必ずや伝えようと念願していたにちがいない。そのために彼は、くる日もくる日も粒々辛苦して修行に励み、中国の言葉も覚え、流麗なる漢詩も創れるまでになっていたといいます
 野崎 その意味では、この後涼における滞在期間も、けっして無駄ではなかったわけですね。
 池田 そうです。無駄でなかったというより、彼はマイナスもプラスに転化していったところに、その偉大さがあるといえますね。
 それまで中国に渡った訳経僧は、ほとんどが高僧であったわけだが、中国民衆のなかに入って一緒に生活した者は、稀であったと思われる。彼らは王侯貴族や知識人社会には迎えられたけれども、羅什のように荒くれ男たちにまじって生活した経験をもっ者は少なかったでしょう。
 したがって、羅什が長安入りするまでの中国仏教界では、まだ小乗仏教と大乗仏教との違いも明確でなかったといわれるのは、そのへんにも原因があったと思われますね。
 松本 たしかに、鳩摩羅什にとっては、中国に渡って大乗仏教を伝えるのが、彼自身の生涯の使命になっていたようです。
 というのは、彼が亀茲国において二十歳のとき、具足戒を受けて立派な比丘となると、その後、母は亀茲国の衰運を見るに忍びず、ひとり天竺に向けて旅立ちました。彼女が、わが子・羅什との今生の別れにあたって、次のように諭したと『高僧伝』は伝えています。そこのところを、少し言葉を足して意訳してみました。
 「大乗の甚深の教えは、まさに大いに真丹しんたん(中国)に闡揚せんようしなければならない。これを東方諸国に伝えるのは、ただあなたの力によるのです。ただし、それによって自分に利益があるというのではないが、覚悟はできていますね」
 それに対して羅什は、きっぱりと答えています。
 「大乗菩薩の道は、身命を惜しまず、民衆を利するために、利他の実践に励むところにあります。もし大乗をもって衆生を教化し、中国に仏教を流伝させ、よく朦昧をひらいて小乗の俗理を洗悟させることができるならば、私は身に爐鑊(焼きごでの銛)の苦を受けても、後悔するところではありません」(大正五十巻331㌻、参照)
 このような決意を述べているところからしても、羅什は中国に大乗仏教を一日も早く伝えようとして、時の到来を待っていたものと思います。
 池田 そうですね。思えば、十六年間の辺境生活というものは、非常に長い。ときに彼は、切歯扼腕することもあったでしょう。熱沙を抱いて、しばし眠られぬ夜もあったにちがいない。しかし、崇高な使命に生きる人の人生は、やがて必ず勝利する秋がくるものです。
 弘始三年(四〇一年)十二月二十日といえば、すでに暮も押しつまった冬の日、この西域諸国に令名をはせた名僧は、後秦の王・姚興の手厚い出迎えをうけ、ついに首都長安に入った。
 羅什が、住みなれた西域への要衝である姑藏こぞうを後にしたのは、この年の秋であったと思う。あたり一面の沙漠地帯を、彼は落日を背にして進み、その逸る心を抑えつつ、長安に入ったと思われます。その日にちまで正確に記録されているところからすれば、羅什の長安入りは、当時の中国仏教界にとっても歴史的な日であったのでしょう。
5  羅什訳の特徴
 さて、こうして長安入りした鳩摩羅什は、さっそくにも国王の要請に応じて、長旅の疲れも見せず、直ちに仏典漢訳にとりかかっています。僧叡そうえいの依頼に応じて、十二月二十六日から始められた『坐禅三昧経』の翻訳などは、早くも弘始四年(四〇二年)の正月には訳出され、また弘始四年からは『大智度論』百巻の翻訳を始めています。
 野崎 ちょっと調べてみて、私もあらためて驚きました。
 羅什三蔵が訳出したのは、新訳・重訳を合わせて全部で五十余部三百数十巻といわれています。もっとも『出三蔵記集』によれば三十五部二百九十四巻ということですが、いずれにせよ『高僧伝』の説をとって彼の没年を弘始十一年(四〇九年)とすれば、わずか八年間に、その膨大な量を翻訳したことになります。これは、簡単な算術計算によっても、ほぼ十日足らずで一巻を訳し終わっています。仮に『広弘明集』の説をとっても、羅什の長安入りから卒年までは十二年ですから、やはり一カ月に二巻から三巻分も訳したことになりますね。
 池田 それほど当時の仏教界では、羅什三蔵のような名僧による漢訳を、強く要望していたことがうかがえますね。
 羅什以前の仏典は、主として西域からの渡来僧によって漢訳されたために、原本には忠実であっても、中国の人びとからすれば、意味のとりにくいものもあったようですね。あるいはその反対に、今度は漢文に近づけようとして、かえって仏教本来の精神から逸脱する面もあった。とくに大乗の般若経典群については、なかなか文意がつかめなかったようですね。羅什が、『大品般若経』の註釈書である『大智度論』を、いち早く翻訳していったのも、そうした中国仏教界の要請に応えたものではないだろうか。
 松本 その点について、道安門下の俊英・僧叡も、鳩摩羅什の訳場に参加してみて、初めて大乗の「空」の概念が明らかになったと喜んでいますね。
 池田 それから、羅什が早いぺースで、ぐんぐん翻訳を進めていくことができた要因としては、すでに西域諸国での長年の修行によって、彼は一切経をほぼそらんずることができるまでになっていたということもあるね。
 もちろん、それは単に経典の文言を覚えたというだけではないでしょう。その文の底に秘められた深い哲理の奥底まで究め尽くしていて、いわば一切経を掌中のものとしていたにちがいない。
 ですから、羅什が原典を手にとって説くところは、そのまま流麗なる漢訳経典として通用した、そう理解していいように思う。
 野崎 その情景を、弟子たちは次のように伝えています。たとえば、慧観の「法華宗要序」には「什みずから手に胡経を執り、口に秦語に訳す。つぶさに方言に従って趣き本にそむかず。即ち文の益すこと、また己に半ばに過ぐ」(大正五十五巻57㌻)とあります。
 すなわち、羅什は西域から伝えられた原本を手に持ち、それを自ら漢訳していく、しかも、それは的確な漢語であって、かつ原典の趣旨と寸分も違うところはない、といっています。
 また僧叡の「大品経序」には「法師(鳩摩羅什)は手に胡本を執り、口に秦言を宣ぶ。両に異音を訳し、こもごも文旨をあきらかにす」(大正五十五巻53㌻)とあります。つまり、羅什は、自ら原本を漢訳しつつ、旧訳の誤りを正し、なお講義までおこなっています。そして訳場には、発願主である秦王・姚興ようこうも参列し「秦王ずから旧経をって、その得失を験し、その通途をい、その宗教をたいらかにす」(前出)とあるように、その場に参加した五百余の学僧とともに、すべて羅什の新訳が優れていることを確認したうえで、それを筆にしていったと述べられています。
 池田 まさに国家的事業として遂行されたわけですね。
 松本 その点について、仏教学者の横超慧日氏は、『中国佛教の研究』第二で鳩摩羅什が名訳を生んだ背景を、次の四つにまとめています。
 一つは、梵語・西域語・漢語のすべてに通じていた羅什の語学的才能。二つは、小乗の説一切有部の教義をはじめ、般若・中観系の大乗教学はむろんのこと、律部にも通じていた羅什の、仏教全般にわたる教義的理解。三つは、後秦王・姚輿を先頭に、当時の中国仏教界が羅什に存分な翻訳ができるような体制をつくったこと。四つは、羅什門下に多くの若き俊英が集い、協力したこと、以上です。
 池田 なるほど、いずれも重要な指摘ですね。
 それでは、今まで話し合ってきたことと若干は重複する面もあるが、ひととおり整理する意味も含めて、その四点を中心に横超氏の研究成果に学びつつ、さらに話を進めたらどうだろう。
6  法華経の漢訳
 松本 まず第一に語学的才能ということですが、羅什は西域の亀茲国に生まれたけれども、幸いに父の鳩摩羅炎は天竺の人で、仏教発祥の国からきています。そのうえ羅什は、九歳にして罽賓すなわち西北インドに留学し、そこで仏法の源流を学びました。このことは、釈尊に始まる仏教を直接、梵語をもって吸収したという意味からも、いちばんの強味になっていますね。
 池田 つまり羅什三蔵においては、彼自身が仏教を学ぶうえで、言語の障壁はあまりなかったということですね。
 むろん、亀茲国からインドへ行くには、果てしない沙漠地帯を西へ進み、パミール高原を越え、インダス河を渡らなければならなかったが、言葉のうえでは、幼時から梵語をマスターできる恵まれた環境にあった。それが生まれながらの俊敏ということに加えて、仏法の深い哲理を理解しやすい条件となった、といえるでしょう。ですから、まだ若い青年僧のうちから、彼の名声が西域諸国に知れわたるほどであったのも、その幼時からの語学力に負うところが大きかったわけです。
 野崎 問題は次に、羅什が漢語を自分のものとする過程ですね。それが、どんなにたいへんな困難をともなうものであったかは、すでにみてきたとおりです。彼は十六年間も、中国の辺境地帯に滞在し、荒くれ男たちと生活をともにし、戦の陣中にあった。
 しかし、そのようにして異民族のなかに身を投じ、また漢字文化圏のなかにとけこむことによって、初めて漢語に習熟することができたわけです。
 池田 そこで羅什は、おそらくすでに漢訳された仏典や、漢語の典籍も読む機会があったにちがいない。最初は、彼自身の語学力を深めるために読んだのでしょうが、仏典については徐々に翻訳上の拙さが目につくようになってきたと思われる。
 さらに進んで、彼が漢語を自在に話し、書けるようになると、旧訳の漢訳仏典には随所に決定的な問違いが散見され、それが仏法の本義をいちじるしく曲げるものであることも、羅什には明らかになってきたのではないだろうか。
 松本 たしかに、それはありうるととだと思います。たとえば、竺法護訳の『正法華経』は、羅什訳より百二十年も前の西暦二八六年に訳されていますが、まだ中国において『法華経』は、それほど大きな影響力はもっていませんでした。
 まえにも話題になったように、この法護は″敦煌菩薩″と称され、敦煌生まれの月支人ですが、西域三十六カ国語に通じているとまでいわれた語学の天才です。その法護にしでもなお、仏典を漢訳するに際しては、多くの伝訳者の力を借りなければなりませんでした。つまり、法護自身が漢語の構文に訳したわけではありません。
 もっとも、法護訳の『正法華経』と、羅什訳の『妙法蓮華経』との決定的違いは、その語学力の違いもさることながら、やはり二人の教義理解の差が出たものと思いますが……。
 池田 そうですね。これは、さきほど挙げられたうちの第二点になるわけだけれども、やはり正しい教義理解がなければ、とんだ間違いを犯しかねない。同じ国の言葉ですら、ときには正反対の読み方がなされるほどだから、いわんや言語の違う翻訳においては、教義そのものまで誤ってしまうような解釈もなされかねないでしょう。
 これは大事な点であって、羅什ほどの大学者にして、初めてそれ以前の中国仏教界の誤りが正されたわけです。
 野崎 ちなみに、竺法護訳と鳩摩羅什訳の法華経の違いは、その依拠した原本の違いもあると思います。たとえば「添品妙法蓮華経序」には、次のように出ています。
 「昔、燉煌の沙門竺法護、晋武の世に正法華を訳し、後秦の姚興、更に羅什に請うて妙法蓮華を訳す。二訳を考験するに、定めて一本に非ず。護(竺法護)は多羅の葉に似たり。什(鳩摩羅什)は亀茲の文に似たり余、経蔵をしらべ、つぶさに二本を見るに、多羅は則ち正法と符会し、亀茲は則ち妙法とまことに同じ」(大正九巻224㌻)と。すなわち、惰の仁寿元年(601年)に闍那崛多じゃなくった達摩笈多だつまぎゅうたが『添品妙法蓮華経』を訳したときには、まだ経蔵に二本の原典が保管されていたわけです。
 しかし、やはり両者の決定的な違いは、教義に対する理解度の差異によるものと思われます。
 松本 それから、羅什の翻訳態度の立派なところは、自分がわからない部分は、その道の先達に謙虚に教えを受けていることですね。彼は、龍樹の流れをくむ般若・中観系の大乗教学には、むろん絶対の自信をもっていたけれども、律部についてはまだ不安が残った。そこで、どうしても解けない疑問が生ずると「貧道はその文を誦すと雛も、未だその理を善くせず。ただ仏陀耶舎は深く経致に達す。今、姑臧こぞうに在り。願わくは詔を下して之をし、一言を三詳して、然る後に筆を著け、徴言だにも墜さず。信を千載に取らしめたまえ」(大正五十五巻102㌻)と言って、国王姚興に、当時、姑臧にいた仏陀耶舎を迎えてくれるように頼んでいます。
 池田 なるほど。仏法を正しく伝えるという目的のためには、じつに謙虚であったといえますね。そこまで完璧を期したわけです。それであってこそ、後世に残る数多くの名訳が生まれたのでしょう。
 野崎 羅什の学識が優れていたことは、また南方の廬山にいた学匠・慧遠との往復書簡によってもうかがえます。その文書は『大乗大義章』の名によって伝えられていますが、慧遠の教義上の質問に対して、鳩摩羅什は懇切丁寧に答えています。ここに中国の仏教界は、羅什の指摘によって初めて、小乗仏教よりは大乗教義のほうが優れていることを知ったわけです。
 松本 第三点の、国王からの援助があったことは、羅什が心おきなく翻訳に専念するために、これは不可欠の条件であった、といえますね。
 というのは、それまで中国は五胡十六国の戦乱時代にあって、何回も仏教徒が迫害されたり、殺されたりしています。竺法護の場合などは、戦乱を避けて各地に流浪し、敦煌、長安、洛陽、酒泉と、経巻を背負って移動しては、そこで翻訳に励みました。『出三蔵記集』の伝には「燉煌より長安に至るまで、道に沿うて伝訳し、写して晋文と為せり」(大正五十五巻97㌻)といった一節も見えます。
 池田 その点、羅什はきわめて恵まれていたわけですね。
 しかし、彼もまたそうした経験を十六年間も積んでいるので、国王の援助に恵まれたことが、それだけで名訳を生む契機となったというのではない。やはり、鳩摩羅什のもつ天賦の才能と、長年の厳しい修行によって得た学識と、さらには大乗教義の深遠な法理があったからこそ、それが後秦主の援助を支えとして花開いたものと考えたい。あくまで国家的支援は、羅什の名訳を生む助縁とみるべきであるということです。
7  8  続々と集まってきたということ。二つには、とれは
9  桃興が積極的に集めたのか、あるいは鳩摩羅什がそ

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