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日蓮大聖人・池田大作

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1 インドから中国へ  

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

前後
3  紀元前の仏教受容
 松本 そうです。中国への仏教伝来について、公の記録には載せられていませんが、可能性としては紀元前三世紀の秦の始皇帝の時代に、なんらかの形で伝わっていたのではないか、と仮定する説もあるようです。
 というのは、ちょうどこの時代のインドでは、初の統一国家であるマウリヤ(孔雀)王朝の第三代、アショーカ(阿育)王が仏教に帰依し、使節を四方の各国に派遣しているからです。秦の始皇帝も、またインドのマウリヤ王朝も、ともに空前の大統一国家として、それぞれ中央アジアにまで版図を広げていますので、両国はかなり接近していたことが考えられます。アショーカ王の平和使節は、西方ではギリシア世界にまで及んでいますので、ことによると東方の中国に向かっていたとしても、けっして不思議ではないと思われます。
 野崎 そうすると、たしか中国にもアショーカ王が建てたといわれる仏塔があったというのも、あながち仏教徒の伝説として片づけることはできない、ということですか。
 松本 宗炳そうへいの『明仏論』にある記事ですね。中国の山東や山西地方にあった阿育(アショーカ)王寺の遺跡から仏舎利が出てきた、ということですが、しかし史実としては確認されません。
 池田 これは二千年以上も昔の出来事であるから、あくまで想像の域を出ないけれども、あのアショーカ王の熱心さからすれば、中国へ仏教僧を派遣したことも、当然に考えられるでしょう。ただし、その使節が中国まで到達したかどうかは、今となっては確認する手がかりもない。
 ところが、秦の始皇帝といえば、あの有名な「焚書坑儒」を断行した独裁君主ですね。その激越な性格からして、自国の儒学者さえ徹底的に弾圧したわけだから、まして異国の仏の教えを受け入れたかどうか。
 松本 惰の費長房ひちょうぼうが著した『歴代三宝紀』によりますと、秦の始皇帝の時代に外国沙門の一行が訪れ、それを始皇帝が投獄してしまった、という記事が見えます。もちろん、これは後代の記述ですが、それによると、始皇帝の三十四年(前二一三年)におこなわれた焚書の暴政によって、それ以前の周・秦時代からあった仏教関係の遺跡や文献も、ことごとく失われてしまった。そして、その後に問題の部分が記されています。
 「また、始皇帝の時代に、沙門釈利防ら十八人の賢者が仏経典を持ってきたが、始皇帝は信ぜず、ついに利防らを拘禁した。しかし夜になって丈六の金剛の人が現れ、獄を破って彼らを救出した。そのため、始皇帝も驚怖して稽首けいしゅせざるをえなかった」(大正四十九巻二三頁、参照)
 すなわち夜中に丈六の金剛人が現れて牢を破り、沙門を救出したなどというのは、いかにも非現実的で、ありそうにないことです。しかし、こういった話が伝えられる背景には、やはり始皇帝の時代に仏教がなんらかの関係をもっていた史実があるのかもしれません。
 池田 おそらく、それは後世の仏教徒のあいだで言い伝えられたものでしょうね。
 ただ、その真偽のほどはなんともいえないが、紀元前三世紀のとの時代は、仮に仏教が入ってきていたとしても、まだ弾圧されたり、すんなりとは受け入れられなかったのでしょう。
 松本 そのことは、次の前漢時代についてもいえると思います。これは、西暦でいえば紀元前二世紀の時代になりますが、漢の武帝が張騫ちょうけんを西域に派遣したのは、一説に前一三九年のことです。以後、漢と西域諸国とのあいだに交流が開かれるわけですが、すでに西域地方には仏教が広まっていた。とすれば、西域への往来者の話から仏教が伝わったであろうし、ことによると「沙門」すなわち仏教僧が、すでに中国へ足を運んでいたかもしれません。
 野崎 西域へ仏教が伝えられたのは、紀元前二六〇年ごろ、アショーカ王の仏教使節であるマハーラッキタ(摩訶棄多)と、マディヤーンティカ(末田地、摩田提とも)によるといわれています。すると、それから百年後の紀元前二世紀中葉には、かなり広まっていたものと思われます。
 松本 ところが中国の中央政府の史書には、この時代に西域から仏教が伝えられたという記述は、ほとんどみられません。わずかに『親書』の「釈老志」のなかに、前漢の将軍霍去病かくきょへい匈奴きょうどを征服したとき、金人を持ち帰って、それを武帝が甘泉宮に祀った、という記述があります。しかし、その金人が仏像かどうかは、否定的にみられている。また、おなじく「釈老志」には、西域から帰国した張需の報告のなかに、仏陀の教えを聞いたという話があったということですが、これも仏教者以外には、あまり信用されていない。
 そこで考えられることは、前漢時代の中国では、儒教が国教に近いまでになっていたという事実です。そのため、仮に仏教が伝来していたとしても、公には無視されるか、あるいは弾圧されたのではないでしょうか。
 池田 それは考えられることですね。まず第一に、なんといっても前漢王朝は、儒教を正式に採用し、体制化した初めての統一王朝です。以来、儒教がいかに大きい影響力をもってきたか――その一例は、二千年後の現代においても、なお全国的に孔子批判の大キャンペーンを張っていることでもわかるのだが、その淵源をつくった前漢のこの時代に、仏教の入る余地は、おそらくなかったのでしょう。
 それから第二に、これはだれでも指摘することだけれども、漢民族は強い中華意識をもっていて、周辺の諸民族を「南蛮・北狄・東夷・西戎」と呼んでいる。何千年も昔からの伝統文化をもっ反面、絶えず周辺諸国からの侵略にさらされていたことからすれば、そのような意識をもたざるをえないかもしれ
 ない。仏教の受容に関しても、初めはブッダを表現するのに「浮屠」という軽蔑的な字を当てているのも、そのあらわれですね。
 また第三に、仏教ほどの高等宗教が異国に理解されるまでには、それだけの準備期間が必要だったともいえます。単なる民間宗教であれば、一時は熱狂的に広まるかもしれないけれども、すぐ廃れてしまう。それに対して仏教が、やがて一千年の長きにわたって中国に根を下ろすためには、その前段階は、長く深い試練に満ちたものであったでしょう。
4  西域情勢と月氏の仏教
 さて、前漢時代ということは、つまり紀元前において仏教が中国に渡来していたとすれば、それは西域の「絹の道」を通ってきたものですね。そこで次に、との西域地方における仏教の展開をみておきたいと思いますが……。
 池田 そうですね。西域諸国の仏教徒の活躍がなければ、もともとこの時代にインドの仏教が中国へ伝えられるのは、かなりたいへんなことであったでしょう。もちろん、海路を通って直接あるいは間接に、インドから中国に伝えられたということも考えられないとともない。しかし、こちらのほうについては、ほとんど資料がない。
 なによりも、この西域地方の動きに注目したいのは、インドの仏教が、いったん西域諸国に根を下ろし、そこで若干の変容をみせ、それから中国に入っているという事実です。インド仏教が、そのままの形で中国に伝わったのではない。西域風の味付けがなされたものが伝えられたということは、異文明の接触を考えるうえで、興味ぶかい歴史資料を提供していますね。
 松本 たしか道端良秀氏の『中国仏教史』(法蔵館)にも紹介されていたと思いますが、「沙門」とか「出家」という言葉は、党語から直接に訳されたものではなく、西域諸国の用語から翻訳されたらしいですね。仏教の重要な教理をなす十二因縁の名目も、西域のトカラ語の訳文から漢訳されたといわれています。
 野崎 これは仏教とは直接には関係がありませんが、中国の植物名で「胡」の字がついたものが多いですね。胡麻とか胡瓜きゅうり、胡桃、胡椒、胡豆そらまめ等々、たくさんありますが、そのほとんどが前二世紀末、漢と西域との交通がひらかれて以降、中国で「胡人」と称された西域人によって、もたらされたものとされています。
 池田 おそらく、そうした植物や文物が、西方の珍奇な物として求められたのでしょうね。それが、中国から出ていった絹と交換されたのでしょう。
 松本 『漢書』西域伝によりますと、西域南道を西行すると、大月氏や安息(パルティア)に出るとされていますが、その道は途中から分かれて罽賓けいひん烏弋山離うよくさんりにもいたる道であった、という。
 ことに「罽賓」とあるのは、今のカーブル河流域にあった国とされています。そこは当時、すでに仏教が盛んであった西北インドにあたるわけですが、その罽賓国にまで道が通じていたということは、逆に同じシルクロードを通って、罽賓から商人や仏教信者が漢と往来していた可能性もありますね。このことは、今日におけるシルクロード研究の権威である長沢和俊氏も指摘するところです。
 池田 そうですね。当時の洛陽や長安には、西域からやってきた商人や使節が、かなり多く滞在していたことが考えられる。なかには、熱心な仏教信者もいたであろうし、ことによると「沙門」と呼ばれる僧侶も含まれていたかもしれない。そのうちの何人かが、胸中に高まる弘法の熱意を抑えがたく、ブッダの教えを漢人に説いたにちがいない。
 松本 ええ。『三国志』の「魏志」中に、魏の魚豢ぎょけんの『魏略西戎伝』を註として引用していますが、そこに次のようにあります。
 「昔、漢の哀帝の元寿元年に、博士弟子景廬けいろが、大月氏王の使伊存から浮屠経ふときょうの口受を受けた」
 この漢の哀帝の元寿元年というのは、西暦前二年にあたります。そして「浮屠経」というのは、いうまでもなく仏教のことに他なりません。しかも、この文書は史料としても信憑性が高く、現存する資料中では最も古い仏教伝来の記事として、学者のあいだでも高く評価されています。
 池田 ここに「大月氏王使伊存」とあるのに注目すべきですね。
 聖教新聞社の陣内・大村・竹内の三記者が、かつて大月氏が栄えたアフガニスタン、パキスタン地方を取材してきたけれど、西暦紀元前後の中央アジアから西北インドにかけては、この大月氏が大いに勢力を広げていた。しかも、彼らは紀元第一世紀ごろにはクシャン(貴霜)朝を創立し、インダス河の流域から、さらにそれ以東の地にまで進出している。また、ギリシア人王の支配下にあったガンダーラ地方も領有し、そこに都をおいたとされているね。歴史上、ガンダーラ芸術として名高い仏教芸術は、この時代にギリシア彫刻の技法も取り入れて、新しい仏教芸術の花を咲かせたものです。
 野崎 クシャン王朝といえば、西暦二世紀ごろに出現したカニシカ(迦膩色迦)王が有名ですね。彼は自ら仏教信奉者となり、第四回の仏典結集をはじめ、幾多の仏教事業を後援したとされています。なにしろ、クシャン王朝の貨幣には仏像が刻まれたのもある、ということです
 松本 かつて大月氏が領有していたバクトリア地方は、宗教としてはゾロアスター教が盛んであったといわれてきました。しかし最近、それも一九六〇年ごろに続々とアショーカ王の碑文が発掘され、この地方は紀元前三世紀には確実に仏教圏であったことが明らかになったわけです。したがってクシャン王朝に仏教が栄えたのも、そうした土壌があったからではないでしょうか。
 池田 このクシャン王朝というのは、かつてのアショーカ王の治世についで最も仏教が全盛をきわめた時代ですね。そこに不思議な縁のような歴史の糸が貫いているように思われる。ともあれ、ここから中国へ、続々と仏教使節が派遣されていくのです。
 興味ぶかいのは、このクシャン王朝についても、中国では大月氏の後継者とみて、西域から西北インド地方までを「大月氏」と総称していることです。やがて紀元二世紀になると、この大月氏や安息地方から幾多の翻訳僧も訪れ、仏教は中国に大きな流れとなって入ってくるのだが、それは今後、さらに詳しく検討することにしよう。

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