Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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5 弟子の群像
「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)
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アーナンダ
池田
それから、アーナンダ、アニルッダ、デーヴァダッタなどは、いずれも、釈尊の従弟ですね。アーナンダとデーヴァダッタは、兄弟ともいわれている。こうみると、いわゆる釈尊の親族の青年たちは、ほとんど仏教徒になったことがわかる。
このアーナンダも、仏弟子中、重要な立場にいたとのなかで、著名な仏弟子はアーナンダだが、彼は多聞第一といわれ、釈尊の侍者として二十五年務め、釈尊の説法を最もよく聞き、記憶した側近の弟子となっています。
このアーナンダも、仏弟子中、重要な立場にいたため、エピソードに事欠かない人物ですね。事実、釈尊入滅後は、マハーカーシャパ(摩訶迦葉)とともに、教団を率いた中心的存在となり、第一回仏典結集の立て役者にもなっている。
野崎
ところが、アーナンダについて不思議なことは、仏滅後におこなわれた仏典結集に最初は参画することを許されなかったようです。それは、この結集の折に集まった弟子は、五百人といわれますが、いずれも阿羅漢果を得たと認められた者だけであったのに、アーナンダは、まだ阿羅漢果を得ていないと、皆からみなされていたというわけです。
それで、アーナンダは悩み、ようやく仏典結集のある、その日の朝、阿羅漢果を得て、これに加わることができたという話がありますが、これらから考えると、アーナンダは、教団の長老や元老格の人物から、敬遠されていた形跡があったのではないかとも思えますが……。
池田
とくに、厳格なマハーカーシャパから、釈尊の侍者としての振る舞いについて、非難されたということが出ていますね。その非難の対象となったアーナンダの態度というのが面白い。アーナンダが、自分のはからいで、女性の帰依者を教団に入れたことに対することや、侍者として仏に対する姿勢がよくない(笑い)などのことである。
まあ、こういう非難の背景には、アーナンダの人間性もあったのであろうが、私は、アーナンダが、後に教団で造反したデーヴァダッタと兄弟もしくは近親の関係にあったことも、働いているのではないかと思う。
というのは、デーヴァダッタによって、釈尊をはじめ教団自体、たいへんな迷惑をこうむった。すると、どうしても、人情の帰趨というか、自然の成り行きというか、その反逆者とごく近親関係にあるアーナンダにも、不信の念が抱かれていく。それに加えて、侍者として、いつも釈尊に付き添っているアーナンダへの、日ごろからの妬みもあったようだね。こうしたことが積み重なって、アーナンダへの不信になっていったことが考えられるのではないだろうか。
野崎
そうですね。それと、アーナンダの人間性としてよく出てくることに、アーナンダの女性に対する態度がありますね。経典等では、しばしば侍者アーナンダが、女性について、釈尊に質問している部分が出てまいります。
また、今の話に出てきましたように、アーナンダのはからいで、比丘尼と呼ばれる女性の出家者が、教団に入ったことがあります。これも、女性、婦人の扱いに関するエピソードですが、このため、これらの比丘尼から、アーナンダは非常に人気があった(笑い)というか、尊敬されていたという話もみられます。
こうしたことからいいますと、アーナンダは、どちらかというと、教団にあっても、華やかな存在であったように映ってくるのです。これは、少しうがった見方かもしれませんが、その華やかさが、長老や、長年苦労してきた実践家の反発を買ったのではないでしょうか。(笑い)
池田
そういう面もあるかもしれない。いずれにせよ、教団にあって、絶えず釈尊の側に控えていて、周囲の憧れの的のような青年であったといえるでしよう。そして、アーナンダの人柄としては、やさしい心情をもち、温和な性格ではなかったかとみられます。
でなければ、釈尊の侍者として、二十五年もつとまるわけがないと思う。アーナンダ以前にも、侍者はいたようだが、ほとんど長続きしなかったところからみても、常時、側近にいる弟子としては、アーナンダが随一であったことは疑いないですね。
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ウパーリ、アニルッダ
野崎
このほか、釈尊の生国出身の仏弟子で忘れられないのが、ウパーリ(優波離)、アニルッダ(阿楼駄)の二人です。二人とも十大弟子のなかに入っており、ウパーリは持律第一、アニルッダは天眼第一と目されている。
このうち、ウパーリは十大弟子のなかで異色の存在であったようです。というのは、この釈迦族で帰依したラーフラ、アーナンダ、アニルッダにせよ、また他の十大弟子にせよ、ほとんどが、経歴的にはバラモンの門弟か、王族の出身であるのに、このウパーリだけは王宮で働く理髪師でした。いわば庶民階級の出身です。
池田
釈尊が、何故、ウパーリを重視したか、ここは大切な点だね。私は思うのだが、これは、仏教教団の内では、一般のカーストからなる階層を認めない。すべての点で平等に取り扱った。そういう仏法の基本的な考えからいって、庶民出身のウパーリを、釈尊が擁護したのではないだろうか。
野崎
ええ。水野弘元氏なども、釈尊がウパーリを重用したのは、旧来の秩序観に固執する釈迦族の悪弊を打破するため、仏教教団にあっては、そうした世俗的階級制度は通用しないことを示す象徴としたと論じています。(『釈尊の生涯』春秋社)
とくに、釈尊の教団にあって、弟子の上下を決めるのは、出家の順であるという考えが用いられていたようです。つまり、先輩・後輩の関係ですね。ですから、ウパーリ、アニルッダ、アーナンダ、デーヴァダッタ等は、釈尊成道後、かなり経たときに、一挙に帰依したグループですが、それらのうち一番最初にウパーリを出家させ、その下に、アニルッダ、アーナンダ等を位置させたといわれています。
池田
当時の時代の様相、また釈尊の生国の伝統的風俗を十分考えたうえで、釈尊は、自らの教団の構成について、じつに細心な配慮をしていたことが、その話からうかがえますね。
ところで、ウパーリ自身だが、彼は釈尊の、この配慮に応えて、見事、頭角をあらわしていった。そして、後には、仏教教団内部で、戒律についてはだれも及ばないエキスパートになったといわれる。持律第一のゆえんです。
野崎
このウパーリと並んで、天眼第一といわれたアニルッダも、面白い存在ですね。彼が天眼第一と称された理由は、目が不自由であるにもかかわらず、通常人を上回る判断力を得ていたというところからきていると思われます。
彼の目が見えなくなった原因もたいへん興味ぶかく、彼は釈尊の従弟として、釈尊を慕い出家したものの、説法を聞きながら居眠りをした。それを釈尊から厳しく叱責され、以後、居眠りは絶対しないという決意を固めた。
この決意は、その後、瞬時も怠らず実行に移されたため、その無理が昂じて、彼の目が見えなくなったといわれる。これが、どこまで真実であるかわかりませんが、これらのエピソードからみるかぎり、アニルッダの仏法に対する姿勢が、決意以後、きわめて厳格であったことが知られます。
池田
このほか、釈迦族出身の弟子の話題としては、婦人の出家者の先駆者となった、マハープラジャーパティ(摩訶波闍波提)や、後年、釈尊に敵対したデーヴァダッタ(提婆達多)などがいるが、これらについては、次に教団の様子などとも関連して、みていくことにしたい。
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